私の原爆体験と原爆障害の大要:調 来助
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調 来助
   
 
INDEX :
はじめに
1. 長崎医大で受けた私の原爆体験
  滑石太神宮と岩屋クラブに臨時救護所開設
角尾学長の死
弘治の遺骨拾い
私の罹った急性原爆症
2. 原爆障害の大要
  原爆による死亡率
原爆被爆者の死亡時期
爆風による災害
高熱による傷害
放射能による障害
原爆の後障害
むすび
写真
私の略歴
調 来助



 はじめに

 今日(昭和六十一年五月十七日)長崎大学第一外科の同門会が開催されるに当り、私の米寿の祝を併せて行っていただくそうで、誠に恐縮至極に存じます。その返礼に何かといろいろ考えましたが、適切なことも思いつきませんので、私の在任中で最大のイヴェントであり、戦後のかたがたには恐らく想像もつかない原子爆弾の被爆につき、私の体験並びに原爆によって起った障害の大要を書いて、皆様の御参考に供することと致しました。
原爆関係の記録は枚挙に遑のないほど沢山ありますので、皆様には既に充分御存じのことと思いますが、核兵器排絶の声が高らかに叫ばれる今日、認識を新たにしていただくことも、強ち徒事ではないと考えたからであります。

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 1.長崎医大で受けた私の原爆体験

昭和20年8月9日
 この日は長崎市にとって永久に記憶さるべき大惨禍の日である。私は前日の八日正午から防空当直の任についたが、八日は大詔奉載日に当たるので、欠席の高瀬隊長に代わり、特に警戒を厳重にするよう、当番の学生達に申し渡した。そしてその夜は病院に泊った。
 九日は六時起床、六時半に同じ当直の内藤教授、梅田教授、医専木戸教授、薬専杉浦教授たちと、調理所の二階で朝食をとる。
 雑談の暇もなく、七時に空襲警報が発令された。直ちに当直学生を本館前に集め、簡単な点呼を行って各自部署につく。敵機の音は聞えない。九時に空襲警報は解除され、引続き警戒警報に入った。ゲートルのまま第二中講堂で医専三年の講義をすまし、帰りに中講堂の前を通ると、角尾学長は十時を過ぎたのに、まだ熱心に臨床講義の最中であった。
 自室に帰って論文書きの最中、唯ならぬ爆音が聞えだしたので、空襲警報は解除になっていたが、確かに敵機と判断し、即座に立ち上って白衣を洋服に着替え、取るものも取りあえず、先ずは待避せんと部屋を出かかった。そのとき北側の窓でピッカと薄紫の光が光ったと思うと、ドドドッと物のこわれる音、咄嗟に蝦形にうずくまった背中に物が落ちかかり、眼前は真暗となって、身体中が埋まってしまった。耳をすますと、ザーッと大雨の降り注ぐような音、これは噴き上げられた土砂の落ちる音であろう。ややあって音も少し静かになったので、立ち上ろうと試みた。背中の物は案外に軽い。うまく立ち上ることができた。目を開けたがあたりは真の闇で、何一つ見えない。再びしゃがんで四囲の静まるのを待った。この間の気持は何とも云えない。地獄の真中に、自分一人が取り残されたような感じだった。
 再び立ち上った。夜明けのように、漸次明るくなった。「今だ」と思って飛び出そうとしたが、先ず部屋の中を見まわした。今まで書きものをしていた机は前に傾き、整理函は倒れ、ベットはゆがみ、衝立、椅子など、何一つ満足なものはない。天井は落ちてこれらの調度品の上に覆いかぶさっている。
 机の前に行って見た。日記帳がちぎれて散乱している。取り上げてポッケトに入れた。カバンは見当らない。その他机上の原稿、本、時計等も、どうなったかさっぱり判らない。逃げ遅れて又爆撃されては、との気が先に立って、大急ぎで部屋を出た。廊下も階段も、落下物で雑然としている。然し幸に難なく階下におりることができた。
 東の出口からとび出した。二、三日前に手術した虫垂炎の女の患者が、男に助けられ、ふらふらしながら大声で救いを求めている。見ると別に怪我はない。「大丈夫だ。早く逃げなさい」と叫んで、調理所裏の防空壕へ走った。汽罐庫はつぶされ、中でシューシューと蒸気のもれる音がする。前のタタキの上には、人が二、三人倒れて動かない。窓の枠にぶら下って死んでいるものもいる。
 走っていく中、古屋野教授に出会った。額に二条の切創らしいものがある。大したことはない。ガラスの破片で傷ついたのだろう。長さ二、三センチで、出血もひどくはない。「御無事で」と挨拶してすれ違い、すぐ横穴にとびこんだ。中は人が一ぱいで、見ると調外科の荒木看護婦がいる。左前腕に五×三センチ位の切創があり、出血がひどい。すぐにハンケチを出してくくってやった。
 壕を出て本館前に行ったが、人がなだれ出て来て、とても入れそうにない。引返して裏山に登った。私は幸にかすり傷一つ受けていない。知人をさがして走った。

長崎医大付属病院と私の避難経路の見取図
  初めに調外科の佐藤克巳君(仮卒業の配属学生)と佐藤スミ看護婦に会った。佐藤君は杖はついているが、怪我はないらしい。看護婦は顔中血だらけで、臀部もモンペが裂けて傷があるようだ。歩くのは歩ける。早く山上へ行くように命じた。
 自室に行ってみようと思って、テニスコートを横切るとき、長谷川教授に会った。右眉の内端に豌豆大の傷があり、少し出血している。「大丈夫だから傷をおさえて、そこに坐っていらっしゃい」と云いながら、更に走った。すると古屋野外科の石崎助教授が、顔一面に火傷を負って、這いながらやって来た。「調先生」と悲しそうな声で呼ぶ。前腕から手にかけて糜爛がひどく、一面に表皮が破れ落ちている。「君は何処にいたんだ」と聞くと、「自分の部屋にいました」と力なく答える。「よし、よし、大した事はないから、長谷川先生の所で休んでおいで」と叫びながら、なお東病棟に向って走るうち、木戸君が元気な笑顔で上って来た。頭に少し怪我があるらしい。「よかったな」と互いに無事を喜び合っていると、「調先生」と泣きながら村山婦長が駆け上って来た。顔と前腕に火傷があるが、石崎君ほどではない。「やぁ、よかった、よかった、みんなで一緒に上の方へ行こう。」木戸君から調外科の看護婦達が皆無事と聞いて安堵したので、最早自室にも用はない、と村山を助けながら、丘を小走りに上って行った。

 病院も町家でも、倒壊した木造家屋の材木に火がついたらしく、四面煙に包まれて、丁度靄の中にいるようだ。昨日まで青かった地面は禿山となり、上の感化院跡の建物も全壊して、最早一部では火を発している。救いを求める声、わめく声、友を呼ぶ声など、あたりは阿鼻叫喚の巷と化して、地獄の絵図でも見るようだ。風は下から山上に向って吹き、灰色の煙がもうもうと山を覆って、人なだれを上へ上へと押し上げる。
 感化院跡付近を登っていた頃、右手に当って私の名を呼ぶ声がした。角尾学長が負傷されて、山へ上って来ておられるらしい。村山達にはずんずん先に行くように命じて、山を横切り、崖をとび下りつつ、声を頼りに一さんに走った。学長はと見ると、顔は蒼白で、シャツを鮮血で染めて力なく仰臥され、周囲に前田婦長、茂島助教授、高橋講師たちが、不安な顔で立っていた。駆けよって「怪我はどこですか」と聞くと、「うん、左手と左足を少しやられた」との答だ。声に力がない。「しっかりして下さい」というと、「大丈夫だ」と答えられる。左大腿の傷は硝子破片による切創で、少し出血していたので、有り合せの三角巾で包帯した。シャツはいかにも気持悪そうだったので、私のノータイを脱いで、素早く着せ替えてやった。
 煙は次第に勢いを逞しくして、今にも火に包まれそうになる。坂本町方面では既に火の手が上って、「ボウボウ」「パチパチ」と家の焼ける音が、手に取るように聞えて来る。このままではとても居られないので、高橋君に学長を背負わせ、私が案内役となって、山を登り始めた。学長の顔は益々蒼く、時々嘔気を催し、嘔吐が起った。御自分では、「動くと脳貧血が来て吐きたくなる」と云って、屡々休憩されるので、中々道ははかどらない。
 感化院跡は既に火を発していた。道々で、「先生診て下さい」と袖にすがる負傷者が数限りなく、見るだに痛ましい姿をしている。中には丸裸のものもあり、着物がずたずたに破れて、形ばかりに纒っているものもいる。火傷で全身が焼け爛れているものもあり、全身が鮮血で彩られているものもいる。力なく横たっわているもの、よろよろとよろめき歩くもの、友を助けて励ましながら登るものなど、目を覆わずにはおられないような悲惨な光景が、そこにも此処にも展開されている。この世の地獄とは、全くこのようなのを云うのであろう。

長崎医大付属病院と後の丘での私の行動見取図
  漸うにして、金比羅山の中腹に辿りついた。一面の薩摩芋畑は、葉がとび茎がちぎれて、丸裸になっている。畑の中に学長を寝かせた。幸い何処にあったのか、蒲団が一枚あったので、それを着せかけた。風が強くて寒そうだ。大倉君が元気にやって来て、芋の蔓で擬装を施し、「本部」の旗を立ててくれた。
 この頃風が変って、山から下の方へ吹きだした。煙が来なくなって、下界の景色が手にとるように見える。看護婦寄宿舎、病院の廊下、基礎の本館などが、皆メラメラと火に包まれて、盛んに燃えている。太陽は赤褐色のいやな色で彩られ、人々の顔も夕焼に染まったような、黒ずんだ灰赤色を呈している。
 誰かが救急袋を持って来た。中に沃丁のアンプルがあったので、学長の処置をすることにした。頭に二カ所、左大腿に四カ所のほか、小さな傷が無数にある。痛いのを我慢して貰って、沃丁を創の全部に塗布した。左臀部の三×五センチの創には、土砂様の汚物がついていたので、「リバノール液」で清洗した。気分は次第によくなられ、最早嘔吐は来なくなった。手の傷は硝子による切創で、手背に二つ(一・五×○・五センチ位)中指の基節背側に一つ、これは一ノ瀬君が赤丁で消毒していたので、そのままにした。
 風が又変って、山の上へ吹きあげて来た。時雨みたいな雨も降りだしたが、大したことはない。山上の負傷者は、雨と風とで皆寒そうに震えている。私は暇を盗んで谷を越え、向うの丘へ弘治(私の次男、医専一年生)の行方を探しに出かけた。谷へ下る斜面に、白い病院の蒲団にくるまった石崎君が、死んだように横たわっている。一人では運ぶこともできない。谷陰には、調外科の入院患者が無傷で逃れて、夫婦で雨宿りしていた。声をかけると嬉しそうに挨拶して、煙草を五本はど呉れた。「弘治—」と大声で呼びながら精神科裏の丘まで行ったが、何の返事もない。大方講堂の下敷になって、そのまま焼け死んだことであろう。

 道々には手もつけられないような重傷者が、幾人となく畑の中や路傍に横たわっている。声を出す元気もないものが多い。学部四年生の奥君らしいのが崖下に横たわり、失神したのか呼んでも判らない。草から落ちる雨だれが、顔中に落ちかかっても、払おうともしない。もう間もなく駄目かもしれない。医専三年の上野君は頭に包帯して、いつも程の元気はないが、それでも甲斐甲斐しく友達の介抱をしていた。調外科の日高君は無傷で、弘治探しに協力してくれたが、やはり駄目であった。
 やがて学長のいる丘から、私の名を呼ぶ声がした。「永井〔隆〕先生の出血が止らないから、来て下さい」という。走って引返した。永井君は右耳前部に示指頭大の切創があり、出血が甚しくて、レントゲン科の助手が二人がかりで、止血に努めていたが駄目らしい。止血鉗子が幾本となく垂れ下っている。麻酔なしの手術に顔色一つ変えない永井君は、実に神々しい気高い姿だった。私が代って鉗子を使ってみたが、やはり駄目だ。仕方なく創内にタンポンを強くつめて、その上から皮膚を縫合した。これで漸う血が止ったようだ。
 手術がすむと、永井君は助手や看護婦達を連れて丘を下り、向こうの崖下に夜寝るための小屋を造り始めた。永井君はクリスチャンだけに、丁度キリストが聖教徒をつれて巡礼する時のような感じだった。
 学長の所に帰ってみると、学長は静かに寝たまま何も云われない。誰か南瓜を割って作った容器に氷を入れて、学長にすすめていた。学長も咽がかわくとみえて、美味しそうに食べておられた。
 午後四時頃だったか、医専三年の香田金朝君が、高木教授を背負って登って来た。何処にも怪我はないようだが、顔色が悪く、気力が全くないらしい。聞けば教授室にいた時、建物が倒壊して下敷になったが、幸に天井を破って逃れ出で、運動場を横切って天主堂の方へ這って行き、川べりで力が尽きて寝ていたところを、香田君に助けられたそうだ。学長の横に寝かせて、早速診察したが、傷も骨折もない。また胸部にも腹部にも別段の所見はない。ただ本人は「苦しい、苦しい」と云うだけである。脈が速く且つ小さい。「ショック」によるものと思った。
 続いて薬専の清水教授が真裸になり、枝をつきながら本部の旗をたよりに登って来た。話によると、壕掘りの最中に爆弾が落ち、幸に壕の中で一休みしていた時だったので難を免れたが、上から材木が落下して、腰を強打したとのことである。作業中だったので猿股だけで何も着ていない。火傷を受けなかったのが、まだしも不幸中の幸といえよう。

 夕方江上君(耳鼻科助教授)と川上君(薬局助手)が、元気に正装してやって来た。二人とも滑石の自宅にいて助かったが、大学が心配なので、火中を通り抜けて漸く辿りついたという。救護材料を持って来て、二、三人の負傷者を治療していたが、そのうちに又姿が見えなくなった。
 雨が止み、あたりは夕靄に包まれ始めた。風も少し凪いだようだ。下界は火事が益々猛烈となる。夜に入るにつれて火の赤さが増し、見ゆる限りは火の海だ。金比羅山を越えるものもとだえ、山で野宿するものも、大体一定の位置に落着いた。学長と高木教授は丘の上で、横臥したまま一夜を明かすこととなり、学内関係者と一般負傷者の一部が、その周囲にたむろした。その他永井助教授等は崖下の小屋に、皮膚科の満島婦長等の一行は、穴弘寺の右下方の畑に、看護婦の一団は穴弘寺の前庭に、学生及び看護婦から成る一群は、穴弘寺の先にある倒壊民家の庭に、それぞれ一塊りとなって、互に励まし合いながら、暗い寂しい夜を迎えた。中には山まで登って来たのに、そのまま天国に昇天したものも少くないらしい。感化院跡では、山羊がつぶされて悲しそうに鳴いていたが、夕方には何処から来たのか、二匹の白山羊が餌をあさっていた。
 夜になると風は全く凪ぎ、空は晴れ渡って星が降るようにまたたいている。月がなく、辺りは真暗でさだかには判らない。驚愕と緊張とですっかり忘れていたが、昼めし抜きの腹が急に鳴りだした。皆もさぞ空腹を覚えているだろうと思うと、可哀そうで堪られない。

 丁度その時、街の救護本部から乾パンの箱が届いた。私は早速これを抱えて、各屯所に配給してまわった。昼間に見定めておいた小径を頼りに、人の影を探しながら、小袋を一つずつ渡して行ったが、暗い露天に淋しくしょんぼりと起臥している様を見ては、胸がつまって、慰めの言葉一つかけることができない。問われるままに友の情報を伝えつつ、最後に穴弘寺下の民家に辿りついた。
 ここでは学部四年の安東君が隊長となって、大きな釜で白米の御飯を炊いていた。民家の主人の許しを得て、潰れた家から掘り出したのだそうだ。それを四、五人のモンペ姿のお嬢さん達が手伝っていたが、聞くと三菱の挺身隊の人達だそうで、思わず感激させられた。火があるだけに、此処だけは明るくて暖い。
 学生達と遭難の模様を語り合っているうちに、祖父江教授が近くの畑で、独り動けなくなっていることが判った。名を呼びながら探し求め、肩で支えながら学生達の所まで連れて来た。傷は軽いが、高木教授と同じようにとても苦しいらしい。蓆をしいて火の側に寝かせ、後のことを学生達に頼んだ。
 やがて御飯ができたので、お結びを作って乾パンの箱につめ、安東君と二人でそれを配給しながら、学長の所に引返した。道は益々暗く、一キロ位の所が三十分以上もかかったろう。もう十時をまわっていたかもしれない。皆黙ってはいるが、まだ寝つかれないらしい。学長にお結びを差上げると、大変おいしそうに召上ったので、この分なら大丈夫だろうと安心した。
 下界の火事は大分下火になったが、赤い火が焼け落ちた窓を通して真赤に見える。昔華やかだった長崎の街は、こうでもあったろうかと想像される程、美しかった。
 私は午後に入って少なからず空腹を感じたので、畑の薩摩芋を掘って食べながら、山をあちこち駆け廻ったが、夜にお結びを四つ五つ平らげて、大いに満腹した。三菱挺身隊のお嬢さんや安東君の功績は、特筆に値する。全く感謝の外はない。
 夕食の配給が一段落を告げたので、元気な助教授達を谷陰に集め、火を焚き暖をとりながら、明日なすべきことを協議した。
 一 朝早く担架二つを用意し、学長と高木教授を自宅へ運搬すること
 一 山で野宿している学内関係者の名簿を作ること
 一 朝食の炊事は安東君が受持つこと
 一 連絡係を決めて、市の救護本部との連絡を図ること
 一 古屋野教授にこれらのことを通告すること
 夜も深くなったので一同寝ることとし、私は永井助教授の勧めに従って、物療科が急設したバラックの藁の上に、身を横たえた。
 天を仰ぎながら、静かに今日一日のことを追想すると、まるで夢のようである。ピカッと光ると共に、世は一瞬にして混乱の巷と化し、無数の人々が傷つき倒れ、或いはそのまま死んでしまった。私達は漸うにして難を逃れ、この山上に駆け上がって来たが、病院も市街も焼けてしまい、帰るべき職場もなく、明日から一体どうしたらよいのか。
 今日会った学長、古屋野教授、高木教授、長谷川教授、祖父江教授達は別として、他の教授達の安否はどうか。次男の弘治は基礎で講義中だったに違いないが、うまく逃げてくれたかしら。若し幸に逃げたとすれば、穴弘寺の山よりも、運動場を通って天主堂の裏山へ行き、それから神学校の方に逃げ、師範学校の裏を通って道尾に行けば、先ず大丈夫だろうが、その道を知っていたかしら。それはそうと、大橋兵器工場に行っている長男の精一はどうだろう。無事にいてくれればよいが、など、頭は走馬燈のようにぐるぐる廻って、中々寝つかれない。
 そのうち敵機が来て、道尾方面に一回爆弾を投下した。小さいものらしい。又頭上にも一つ、空中で爆発する小さなえたいの知れぬ爆弾を投下した。その後は敵機の襲来もなく、何時とは知らず眠りに落ちた。時計をなくしたので、正確な時刻はわからないが、多分十二時頃だったと思われる。

 『以上は、原爆直後に書いた私の日記で、原文のままを転載したが、八月十日以後は、余りに冗長に亘るので、要所のみを抜萃することとした』

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 ・ 滑石太神宮と岩屋クラブに臨時救護所開設

8月10日(滑石太神宮と岩屋クラブに臨時救護所開設)
 今日も一天晴れ渡って、一片の雲もない。永井君達は朝早く起き、全員隊伍を整えて薬専の壕へ出かけた。私は一人で学長を見舞ったが、意外に元気がよい。これに反し高木教授は、相変らず生気がない。
 西山町の学長官舎は、家もお家族も無事なことが判ったので、担架でお送りすることを進言したが、「傷の治療がして貰えないから」と云って中々承諾されない。仕方なくお言葉に従って、一応病院へ降ろすことにした。しかし病室は全部焼けて、足の踏み場もないほど荒れ果てている。止むを得ず、学長と高木教授を担架のまま、横穴防空壕の中に収容した。
 そこへ折りよく、古屋野教授が来られたので、学長は今後自分に代って、学長事務をとるように依頼された。
 私は暇をみて学内の巡視に出かけた。先ず自分の教授室に行って見たが、室内は全部焼け落ち、書類も調度品も何一つ残っていない。書棚の洋書は、まだブスブスと燃えていた。私の損害としては、当直用に持ち込んでいた蒲団、ロンジンの腕時計、貯金通帳の入っていたカバン、論文の記録、文献等で、差当り無くては困るものばかりであった。
 各科の病棟もほぼ同様で、屋外の通路には、多数の死体が転がっていた。夢遊病者のようにフラフラと歩いている者もいたが、中には這いながら助けを求めている者もいた。
 基礎教室は大部分が木造だったので、跡形もなく焼けてしまい、山木事務官らしい死体が一つ、部屋の焼跡に横たわっていた。法医学教室の焼跡にも、国房教授らしい死体があったので、合掌して冥福を祈った。
 運動場では、放射線教室が作った野菜畑の中に、汚れた白衣を着たままの看護婦の死体が、数人横たわっていて、見るも哀れな有様を呈していた。
 運動場からの帰りに、神経科の横を通ると、横穴壕の奥に山根教授が寝ておられると、学生が知らせてくれた。引出してみると、頭や顔に汚い木綿布で包帯がしてあり、全く元気がない。簡単な処置と強心剤注射を施して、古屋野教授にその旨を報告した。

  以上のほかにも多数の負傷者がいて、焼跡ではとても充分な治療ができてないので、私の疎開している滑石町に、臨時救護隊を開設することを、古屋野教授に相談した。同意を得て、午後一時ごろ大学を出発し、歩いて滑石につくと、先ず町内会長の片岡舜一氏を訪ねた。方々見てまわったが、太神宮以外に適当な建物がない。隣町の伊東町内会長にお願いして、岩屋クラブを借りることにした。 話が纒っので、疎開先の四尺宅に帰った。遠くから私の姿が見えたらしく、全身に包帯した長男精一(十八)が、母親純子(四十才)、次女朝子(十四才)、三女礼子(十二才)、四女惇子(八才)と一緒に出迎えてくれた。次男弘治(十六才)の顔が見えない。まだ大学から帰らぬという。 四尺氏宅(爆心地から四キロ)では天井が落ち、硝子障子が全壊して見る影もない。ただ八十才になる母が元気だったので、ホッと安心した。家では私が死んだかも知れないと、一夜をまんじりともしなかったそうで、皆涙を流して喜んでくれた。その夜は、昨日からの悲喜こもごもの話に、時を忘れていつまでも眠れなかった。

8月11日
 岩屋クラブの修復を町内の人にお願いして、負傷者収容のために大学へ行った。大学では外来本館前に受付を造り、生存者、死亡者、行方不明者の名を掲示して、消息を尋ねに来た親兄弟達に応対していた。

 私はすぐに学長と高木教授を見舞い、次で行方不明の教授達の消息を調査した。嬉しかったのは、爆死と信じていた国房教授が生きていたことである。皮膚科病棟の床下にに寝かされ、奥さんが小さな缶詰の穴缶に水を汲んで、頭を冷やしておられた。触ってみると体は焼けるように熱い。私は大きなバケツに水を汲んで奥さんに渡し、早く何とかしないと、この儘では間もなく駄目になるだろうと、行末が案じられた。
 その後、古屋野教授と対談している時、四年生の松瀬寿良君が、内藤先生らしい死体のあることを知らせてくれた。ポケットにあったという手紙を見ると、確かに内藤勝利教授に間違いがない。婦人科の廊下に行って見ると、教授は梁の側で、海老のように曲って死んでいた。傍らの壁には、血で出来たと思われる赤黒い手形がついている。多分梁が頭に落ちて流れた血であろう。
 救護所に収容する受傷者の人選は、なかなか決まらない。学長は矢張り、家へ帰るよりも救護所へ行きたいと云われる。高木教授は佐野教授の診察によると、余り重態なので担送の途中が危ないとのこと、決局担架は国房教授に回して、お宅へ届けることにした。これで救護所へは、学長と山根教授を収容することとし、学生の人選は木戸君にやって貰うことにした。
 夕方私は、幸に生残った調外科の看護婦八人(阿部、木田、出口、酒井、笹山、本田、村上、矢口)を引連れ、外科病棟の床下に保管していた薬品材料を、滑石町内の佐古氏にリヤカーで運んで貰い、歩いて滑石の四尺氏宅に帰った。急に人数が増えたので、看護婦達は六畳の間にザコ寝させ、食糧は川本君(大学薬局員)にお願いして、井樋の口の救護本部から米の配給を受けることとした。看護婦達は疲れたのか、夕食後間もなく深い眠りについたようだ。

8月12日
 看護婦達は朝早くから、太神宮と岩屋クラブの掃除に出かけた。午後には、薬品材料を運んで診療の整備をすまし、収容予定の受傷者達を待ったが、輸送車の都合がつかず、彼等が救護所に着いたのは、十二日の真夜中だった。私も看護婦達も四尺氏宅で熟睡していたので、十三日朝に報告を受けるまで、少しも知らなかった。

8月13日
  早朝に被爆者到着の伝令が来た。取るものも取り敢えず、クラブに駆けつけると、学長と山根教授は、担架のまま六畳の部屋に置かれ、学生達は板の間に寝かされていた。大急ぎで私の家から、二人分の夜具を太神宮に運ばせ、学長と山根教授を拝殿に収容した。大学からは角尾内科の前田婦長が看護に来てくれたが、手不足なので、調外科の看護婦を一人配属させた。
 診療担当の医者は、当時医専教授を兼任していた木戸助教授が、医専三年生の上野謙吉、蛭崎武徳、片山和男、小林栄一、桧林重樹、山本雅文の諸君に手伝いを頼んだところ、皆看護婦と共に甲斐々々しく立働き、傷や火傷の処置は勿論、食事や大小便の世話までやり、まるで戦場さながらの有様だった。
 大学にあるような消毒器がないので、水を入れた洗面器を七輪にかけて煮沸消毒し、ガーゼは、熱湯に消毒薬を溶かしたものに浸して使用した。給食は釜も鍋もないので、御飯も副食物もバケツで炊いた。
 学長はこの日から創が化膿して、三十八度八分までに発熱したが、一般状態はそれほど悪くない。それに反し、山根教授は熱はなかったが、午後から軽度の牙関緊急が起り、破傷風ではないかと思われた。家では精一がウンウン唸っており、炊事場では純子が一人で、十数人分の食事を用意していた。

8月14日
 岩屋クラブの患者は重症者ばかりで、高熱や下痢がひどく、中には血便を出すものもいたので、我々は赤痢と早合点して、部屋の隅に隔離(?)したりした。これらの患者は次々に死亡するので、学生達は方々から木片を集め、火葬するのに多忙を極めた。そればかりでなく、民家からは往診を頼まれるので、その度毎に学生が看護婦を連れて、傷の手当をしたり、強心剤注射をして廻っていた。
 学長は相変わらず熱が高く、下痢も加わって苦しそうだった。それよりも山根教授の破傷風が著しく悪化し、学長から血清を戴いて注射したが全く効果がなく、宮参りに来た人が鈴を鳴らす度に大痙攣を起すので困った。食事も薬も咽を通らず、見るも痛ましい有様であった。特に可哀想だったのは、酒好きの教授が、どうしてもそれが飲めなかったことである。
 精一の容態も相変らずで、寸時も呻き声の絶え間がない。弘治の情報は何処からも入って来ない。昼間は患者の治療が忙しくて、思い出す暇もなかったが、種油の灯火で味気ない夕食をとる時は、皆沈んで話す声にも力がない。

8月15日
 山根教授の破傷風が極度に悪化して、午後からは意識も混濁し、七時過ぎに遂に鬼籍に入られた。側に寝ておられた学長の心境は如何であったろうか。
 この日、午後に道を歩いている時、町の人から戦争の終わったことを聞いた。ラジオがないので、陛下の御詔勅も知らずに過していたのである。夕食の時看護婦達に伝えると、急に気抜けしたように、浮かぬ顔をしながら、黙々と箸を運んでいた。
 夜に入って、精一の衰弱は目に見えてひどくなったが、意識は比較的明瞭で、今度の戦争を心から憤慨していた。

8月16日
 精一の衰弱が極度に達し、母を呼ぶ声も次第に細くなり、正午頃眠るように息を引取った。町の人に運んで貰い、近くの山で荼毘に付した。学生の頃、「僕等の人生は二十年だ」と、日頃よく弟の弘治と語り合っていたが、二十才にも足りない十八才で一生を終ったのである。
 火葬がすむとすぐに、学長や学生達を見舞い、乞われれば看護婦を連れて往診にも出かけた。私事にかまけて家に引籠ることの出来ない、非常事態だったのである。
 学長はこの日から下痢がひどくなり、前田婦長も困っていたので、茂島助教授に来て貰い、内科的治療をお願いすることにした。

8月17日
 今日、学長の令弟で昭和医専薬理学教授の角尾滋氏が、東京から来られて付添われることになった。早速学長の体温を測られたが「何度か」と聞かれた時、「三十九度です」と答ながら、検温器を私に示された。見ると四十一度であった。本当のことをいうと、学長が心配されると思われたからであろう。学長は、「汗が出たら熱が下るのに」と、淋しそうに嘆いておられた。
 この日は米軍上陸のデマが飛び、滑石の人達は四尺家を初め、皆蚊帳や食糧を担いで、岩屋山に逃げてしまった。夕食をすました午後七時頃、近所の家から往診を頼まれた。行って見ると、怪我は老人で、左頬に10センチ程の切創があり、畳が血の海みたいになっている。有りあわせの布で傷口をおさえ、二キロ余り離れた救護所に、縫合材料を取りにやった。その間に片岡氏がやって来て、「調先生、そんな患者は放って、早く逃げないと危いですよ。米軍の上陸騒ぎで、巡査が真先に逃げましたよ」という。医者として無責任なことは出来ないので、材料の揃うのを待って縫合をすました。
 家に帰ると娘達が震えていたので、大丈夫だから落着くように訓し、更に救護所に行って、看護婦達にも義務を果たすように説諭した。

8月18日
 救護所に行くと、看護婦達が米軍上陸の噂に恐れをなして、是非家へ帰してくれという。日本軍が支那大陸でやった悪辣な行為を、薄々知っているためであろうか。折角原爆で生残ったのに、若しもの事があったら親御さんたちに申訳ないと考え、木戸教授と図って救護所の閉鎖を決意した。
 生存中の受傷者を、諌早や大村の病院へ転送し、看護婦達は思い思いに自宅へ向かって引揚げた。僅か六日間の救護作業ではあったが、戦場のような忙しさに、身も心もクタクタに疲れたので、私は慰労を兼ねた分散会を、疎開先の四尺宅で催すことにした。
 集ったのは木戸教授、上野君、片山君、ほか二、三人で、料理は死んだ息子二人が飼っていた鶏二羽をつぶし、酒は肥壕酒造所から無理に一升だけ分けて貰った。町の人一人も居ない静かな家での慰労会は、ちょうどお通夜のようで、死んだ息子達の供養になったことであろう。

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 ・ 角尾学長の死

8月22日(角尾学長の死)
 救護所を閉鎖した後は、太神宮に寝ておられる学長の治療と、依頼を受けた患者の往診だけで、気分的に大変楽になった。

 学長の硝子傷は大半治癒して、十八日頃からは下痢や熱などの内科的の症状が主となったので、この方は茂島助教授を指図しながら、御自分で治療しておられたようである。然し熱は相変わらず高くて、食欲もなくなり、十九日頃から口内炎や皮下溢血斑を生じ、全身倦怠が強く、二十一日午後からは意識も混濁し始め、遂に二十二日午前十時に鬼籍に入られた。枕頭に待っていたのは、学長夫人、令弟、古屋野教授、茂島助教授のほか数人の教室員、木戸助教授、私達夫婦などで、皆暗涙にむせび、暫しはただ茫然と遺骸を見守るばかりであった。その日の私の日記には「巨星地に墜つ。これはその時の私の偽らざる感想であった。学長は卓越した学者としても、敏腕な政治家としても、又と得がたい偉大な方で、わが長崎医大ばかりでなく、我国の教育界に於いても、実に惜しい人を亡くしたものだと痛感した。」
 遺骸は大学に運ばれ、外来本館の玄関ホールでしめやかにお通夜をなし、翌二十三日に告別式が行なわれ、裏の丘のテニスコートで荼毘に付された。

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 ・ 弘治の遺骨拾い

8月28日(弘治の遺骨拾い)
  この日は次男弘治の遺骨を奇蹟的に発見した日である。私は連日の救護作業で疲れたのか、何となく体がだるく、往診を求められても、歩いて行くのがだんだん億劫になった。でも非常時に医師としての使命を考えると、じっとして居られず、重い足を引摺りながら、瀕死の被爆者達を治療し続けた。 救護事業も一段落ついた八月二十八日に、私は妻子を連れて大学に行き、弘治の消息を尋ねた。医専一年生は解剖学の講義中だったと聞き、講堂を探して行って見たが、一面はすべて廃墟と化し、木造の建物は皆焼けて、土台だけが残っている。空には何百羽とも知れぬ鴉が、腐肉を求めて乱舞し、その声は死霊の怒号とも呪詛とも聞こえて、不気味な情景を呈していた。
  講堂は全く焼け落ちて、土台だけが図のように二列に並び、その中間に三つ四つの白骨の小山が築かれていた。各々の小山から、誰のとも判らない骨片を一、二片ずつ拾っていると、末娘の惇子が、「こんな物があるよ」と大声で我々を呼んだ。行ってみると講堂の中央に、入口のドアらしい長方形の鉄板が斜めに倒れており、その中央に布切れが焼け残ってくっついていた。よく見ると、それは紺サージのズボンのホックの部分で、白い裏切れが表向きになっており、その端っこに「山本」と黒で書かれた字が見える。純子は咄嗟に、「アッ、これは弘治のズボンだわ」と叫んだ。山本というのは私の長姉の独り息子で、九大医学部を卒業後、海軍軍医として応召し、ラバウルに行っていた。その学生服を貰って着ていたもので、当時学生は皆カーキ色の菜葉服を着ていたが、弘治一人だけ紺サージ服を着ていたので、弘治に間違いないことがわかった。多分倒れたドアの上にうつ向きに寝て焼き、ズボンのその部分だけが焼け残ったのであろう。

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 ・ 私の罹った急性原爆症

9月3日(私の罹った急性原爆症)
 弘治の死が確認された後は、力もつき果て、何もする元気もなく、母や純子、娘達と互に慰め、励ましながら、乞うわれたら被爆者を往診してやる数日間が続いた。それものろのろと、まるで夢遊病者のようによろめき歩きながら—。

 九月二日に、約二キロ離れた横道から往診を頼まれた。全身倦怠がひどく、歩くことさえまともには出来ない状態だったので、断ろうかと思ったが、被爆者が可哀そうなので行ってやることにした。しかしのろのろ歩きなので、行き着くのに一時間余りかかったようだ。患者は瀕死の状態で、一応注射はしてやったが、私が帰って間もなく死亡したとの報告を聞いた。
 九月三日に大学本部から連絡があって、緊急会議の召集を受けた。大学再建に関する重要な会議とのことで、是非行かなければと思ったが、一人で行くのは不安だったので、高女二年生の朝子を伴につれて家を出た。道尾駅まで二キロ余りをそろそろ歩き、長崎駅で汽車を降りると又一キロ道を、本部のある商工会議所(桜町)まで歩いたが、その時小川町あたりで、10メートル程先に茂島助教授の行くのが見えた。多分会議に行くのだろうと思い、追いつこうとしたがどうしても追いつけず、声をかけようとしても大きな声が出ない。とうとう同じ間隔を保ちながら、やっとの思いで会議所辿りついた。茂島君も私と同じように弱っているんだと思った。
 会議は二時間余りですみ、又朝子に付添われて帰ったが、家につくと起きていることさえつらくなったので、すぐに床をとって横になった。
 翌朝私は床の中で、上腕と大腿に無数の小さな溢血斑を発見した。これまで多数の患者に見たのと同じ色である。そんな人は皆死んでしまったので、今度は自分が死ぬ番ではないのかと不安になった。
 その頃、北村教授が何かの用で縁先まで来たので、起きて行って斑点を見せたが、教授は「私にもあるよ」と云って、腕をまくって見せた。私のよりも少し色が濃いが、私と違って至極元気である。そこへ純子もやって来て、「それは蚤の食った跡でしょう。私にもあるますよ。」と云って、慰め顔に自分の斑点を示した。しかしそれとは少し違うので、念のために十四歳になったばかりの朝子に、注射の方法を教えながら、ビタミンCの静脈注射をやって貰った。また、咽喉が痛むのでカルシウム二○?の静注もやって貰った。注射は上手に出来たが、針のあとが斑点になってなかなか消えない。これも亦心配の種となった。
 それから一週間ぐらいは、腕や股の斑点を見つめながら、「私が死んだら後はどうなるだろうか。遺言でも書いておこうか」など考えて、とても辛い思いをした。食欲もなく、全身がだるくて、寝返りも思うように出来ない。物を云う時も大きな声が出ないので、黙り勝ちになった。ところが一週間程たつと、注射の針跡の斑点は色が変って、紫色から青色、黄色になって行くことが確かめられた。「ひょっとすると助かるかも知れない」と考え出したのは、九月十二日、十三日頃だったろう。何となく嬉しい気がした。
 九月十六日だったと思うが、教室の藤井君が見舞いに来て、血球計算をやってくれた。赤血球数三五○万、白血球数二、四○○だったが、溢血斑の最盛期には、恐らくもっとずっと少なかったに違いない。後に白血球数、一、○○○以下の人は殆ど皆死んだと聞いて、思わず慄然とした。藤井君はその時、牛骨のスープをビール瓶につめて持って来てくれたが、とても美味しかった。
 二十日頃だったか、医専三年の香田君が来て、一晩泊めてくれという。息子達が死んで淋しい時だったので、快く承諾したが、色々とうるさく話かけて来るのには弱った。衰弱している私は返事をするのさえ物憂く、早く寝てくれたらと思っていると、香田君は土間に置いてあるアルコール瓶を見つけ出し、これを飲んでもいいかと云う。死んでも知らないよと返事したが、彼は「これはメチルでなくエチルだから大丈夫です」と云いながら、小さなブドウ酒のコップに半分程入れ、それを糖液で薄めて、「先生も一杯如何です」と私に勧めた。私は肝臓をやられているので毒だろうと、初めは躊躇したが、余り執拗に勧めるので、少しずつ嘗めるように飲んでみたが、とても舌触りがよく、とうとう皆飲んでしまった。すると不思議なことに、何となく体が温まり、いくら喋っても疲れないようになった。その後は、彼が帰った後も薬と思って朝夕続けて飲んだが、そのせいか急に元気が出たようだ。純子も「大変顔色がよくなった」という。平素嫌いでもない酒で病気が治るのだったら、こんな嬉しいことはない。土間に放置していたアルコールが、急に大切な品物に見えだした。全く私にとっては救いの神様みたいで、本当に生気をとり戻し、これなら大丈夫だと思ったのも、これをやり出してからであった。
 斯くして死地を脱した私は四尺宅でぶらぶらしながら、色々の事を考えた。自分だけは漸く一命をとりとめたものの、精一と弘治は、あたら青春を謳歌することもなく、再び帰らぬ人となった。これで調家はどうなるであろうか。それよりも灰燼に帰した長崎医科大学は、どんな運命を辿るであろうか。再建されて再び職に戻ることが出来るであろうか。悶々として寸時も晴れやかな時はなかったのである。そして大学を訪れる元気も、勇気もなく、九月二十四日となってしまった。

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 2.原爆障害の大要

 原子爆弾の被爆によって灰燼に帰した長崎医科大学は、全学を挙げて一時旧大村海軍病院に暇寓することとなり、私は爆死した内藤教授の後を継いで、付属病院長を拝命した。
 当時この病院には数百人の被爆者が収容されていたので、我々はこの患者を治療すると同時に、約八千人にのぼる被爆者の被爆状況を調査した。
 長崎に落とされた原子爆弾は、広島よりも強いプラトニウムの同位元素で作られたもので、これが爆発すると数千度に及ぶ高熱を発し、強度の爆風を起すと同時に、放射線を有するガンマー線や中性子を放出して、これが人体に作用すると、種々の重要組織を破壊して、遂には死に至らせるのである。
 原爆で起こる災害を大別すると、(一)爆風による災害、(二)高熱による傷害、(三)放射線による障害の三つに分けることが出来るが、これらが種々に組合わさって建物にも、生物にも、また人体にも悪い影響を及ぼしたのである。
 この調査に当ったのは私のほか、木戸助教授、佐藤助教授、一瀬助教授、高橋助教授、亀井講師、藤井副手、石丸副手、須山副手、佐藤副手、赤羽博士、久保田医員、そのほか学生約五○名であった。この人達が昭和二十年十月から十二月迄の間に約八千枚の調査票を作製し、これを私が一人で集計して論文に纏めたが、それには一年以上を要した。論文は左の四編に分れている。

 第一編 原子爆弾による死亡率について
 第二編 原爆受傷者の死亡時期について
 第三編 原爆による外科的損傷について
 第四編 原爆による放射線病について


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 ・ 原爆による死亡率

 死亡率を種々の方面から調査したところ、
  (一)爆心地からの距離別死亡率を調査するため、次の図に示すような二十三の場所で一○五二人の死亡者を調査し、下の図よな成績を得た。即ち一キロ以内では殆んど一○○%が死亡したが、三番の大学病院だけはコンクリート建だったため、著しく低率となっている。八番(油木町)と一○番(目覚町)が低いのは山陰になっていたためで、九番(高尾町)と一一番(家野町)が高いのは、家が爆心地に面した丘の中腹にあった為と思われる。

 (二)男女別死亡率では、一般に男が女より高くなっているが、それは抵抗力の差によるものではなくて、男が多く屋外にいた為ではないかと思われる。

 (三)屋内、屋外別死亡率では勿論、屋外が屋内よりも遥かに高く、屋外(七○%)・屋内(四七%)であったが、一キロ以内の木造家屋では、屋外(一○○%)、屋内(九七%)で殆んど差がなかった。

  (四)年齢別死亡率では、一○才以下の幼児(五六%)と六○才以上の老人(五七%)の死亡率が、三○〜四○才代の壮年(三六%)よりも高くなっている。それは恐らく抵抗力の差異によるものと考えられる。






  (五)損傷別死亡率では、全例を調べた場合、火傷(六○%)、外傷(四四%)、無傷(十八%)であったが、一キロ以内の症例では、火傷(九六・七%)、外傷(九六・九%)、無傷(九四・一%)で、三者の間に殆んど差異がない。このことは、原爆による死亡が、火傷や外傷のみによるものでなく、これに強力な障害、即ち原爆放射線能が加わった為に起ったことが確認されたのである。

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 ・原爆被爆者の死亡時期

 我々は長崎市内の民家、大村海軍病院、川棚共済会病院、時津国民学校、時津万行寺などで死亡した七九七人について、死亡時期を調査したところ、大村や川棚など遠距離へ運ばれた者と、長崎市内及び時津など近距離避難者との間に、差異のあることが判明した。
 即ち近距離避難者の場合は、八月十日頃に小さな山があり、十六日頃に大きな山(ピーク)があるのに反し、遠距離輸送者では、八月十日か十一日に大きな山(ピーク)があって、十六日頃に小さな山があり、その後は共に減少している。このことは、被爆直後の安静が極めて重要なことを示すものと思われる。

長崎の原子爆弾死亡者の死亡時期

大村海軍病院入院患者例の死亡時期

川棚共済病院入院患者例の死亡時期

時津国民学校・萬行寺収容患者例

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 ・爆風による災害

 この時の爆風は想像も出来ない程の強さで、大地震のような震動を生じ、家が倒れ、一抱えもある大木が折れ、或いは根こそぎ倒れ、病院の煙突は「く」の字に曲り、大学正門の門柱は幅三尺、高さ五尺で、土台はコンクリートで固めてあったのに、三○度ほど傾いて今にも倒れんばかりになった。街ではガスタンクの鉄塔も工場の鉄柱も、ペシャンコになって飴のように曲り、穴弘法の丘では墓石が全部倒れ、四○センチ程伸びていた甘藷の茎が、根こそぎちぎれとんで、甘藷が地面に露出していた。窓のガラスは一○キロ以上の遠い所でもちんじんに割れ、瓦もとんでしまったという。有名な一本足の鳥居も爆風によるものである。
 爆風が人体に加えた傷害は、皆二次的に起った怪我で、最も多かったのはガラス傷(六○%)で、小さな破片が何百となく体にささり、大きな破片では神経の本幹が切れて手がぶらぶらになったり、中には頭蓋骨を貫いて脳内に入ったものもあった。
 次に多かったのは打撲傷(二○%)や挫創(一三%)で、幸に骨折は少なかった(二%)。それでも中には腰推骨折を起して、脚の立てなくなった可哀想な人もいた。

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 ・高熱による傷害

 これは勿論火傷であるが、普通の火傷と異り、非常に範囲が広く、背中一面とか、顔、首、胸一面が焼けているものが多く、半数以上は半身又は全身の火傷であった。中には皮膚の表皮がむけて垂れ下がっているものも見られた。
 また原爆火傷の特徴は、その瞬間に少しも熱さを感じなかったことで、それは高熱の作用時間が、何千分の一秒というような極めて短い時間だったためと云われる。尚、今一つの特徴は、火傷が癒ったあとで、殆んど全例にケロイドを生じたことである。これは普通の火傷になかったことで、我々外科医も初めての経験だったので、一時は学界で大きな問題となった。幸にこのケロイドは時日の経過と共に次第に縮小したので、私は熱の外に原爆放射能の作用が加わり、一時的に内分泌臓器が障害され、その結果体質変化を来して発生したものと考えた。現在では原爆ケロイドが殆んど見られないので、私は今でもそう信じている。

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 ・放射能による障害

 放射能を有する物質が人体の組織や細胞を破壊することは、昔から知られていたことで、レントゲン線やラジウムが病気の治療に使われるのはその為である。原爆はそれよりも遥かに強力な放射線を放出するので、たとえ瞬間的に作用しても、破壊力の強いことは言を俟たない。
 放射線で最も侵され易いのは、血球、骨髄、性細胞、性腺、内分泌腺、粘膜などで、白血球減少、貧血、血便などを来すのはその結果とされる。
 原爆症の症状としては、嘔吐、下痢、発熱、出血、脱毛、口内炎などが主な症状で、その他、頭痛、眩暈、意識障害、腹痛なども挙げられるが、この方は余り重要でなく、死亡者に多かったのは、発熱、下痢、嘔吐、出血、口内炎等であった。
 各病状について、生存者五、五二○人、死亡者三二三人について、発生率の差を表示すると、次の通りである。

症 状 生存者 死亡者
嘔 吐 15.0% 51.6%
下 痢 33.3% 67.6%
発 熱 21.5% 80.0%
出 血 14.7% 48.6%
口内炎 17.8% 43.6%
脱 毛 11.8% 29.1%
頭 痛 20.4% 39.0%
眩 暈 10.5% 21.3%
意識障害 6.6% 21.0%
腹 痛 10.8% 26.1%

  嘔吐は被爆直後か、遅くとも翌日までに起る事が多く、ショックによるもので、従って放射線の影響が大きかったことを示している。
 下痢は被爆当日から一週間以内に起ったものが大部分で、早く起こった者ほど予後が不良であった。ひどいのになると赤痢のように水様便を出し、中には血便を出す者も見られた。(二五%)。
 発熱も下痢と並行して、一週間以内に起こる場合が多かった。而も焼けるような高熱(四○度以上)で、学長が生前に指摘されたように、汗腺が侵されて汗が出ないので中々下らない。この高熱は無傷の人にも高率(七一・六%)に見られたので怪我や火傷、下痢などで起ったものでなく、放射線の作用によることが確実に理解される。
 出血も原爆症に特有な症状で、中でも皮下に出血して斑点を生じたものが最も多く(四五・一%)、次は血便(三三・三%)、歯齦出血(二七・八%)、鼻血(二○・四%)、吐血(一八・五%)等で、この外血尿(九・三%)、喀血(八・六%)、結膜出血(四・三%)なども見られた。出血も早期に大量に見られたものほど予後が不良であった。
 口内炎は口の中が爛れる病気で、歯齦炎、扁桃腺炎、咽頭炎等もこの中に含まれ、食物をとると痛くて嚥下が不能となる。中には頬がくずれ落ちた人もあり、死亡者も多く見られた。
 脱毛も重要な症状の一つで、レントゲンを頭にかけるとその部分が禿になるが、それと同様に頭髪が抜け、ひどい場合は丸坊主になった人もいた。若い女の人では可哀想だったが、幸に死亡とは直接の関係がなかったので、死ぬこともなく、今では元通りに綺麗に生え揃っている。死亡者に脱毛が比較的少ないのは、脱毛が通常二、三週間後に起ったので、重症者は脱毛の起こる前に死亡したためと思われる。

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 ・原爆の後障害

 被爆者に起った種々の障害は、三、四ヵ月後、即ち昭和二十年十二月頃には一応治癒したように見えたが、その後になって又種々の後遺症が新たに起って来た。その中で最も目立ったのは、次記の三障害である。
 (一)ケロイド、この病気は、火傷や外傷の癒った瘢痕が、もりもりと膨れ上り、色は褐色でゴムの様に硬く、痒みや痛みを覚ゆる一種の腫物で、原爆の瘢痕でなくとも生ずる事があるので、原因は体質の異常によると云われている。このケロイドが火傷瘢痕には七○%以上の人に、外傷瘢痕でも二○%に発生したので、その当時は「原爆ケロイド」と云って、大変騒がれた。
 普通のケロイドは自然に治癒することなく、切除すると再発して増大するのを特徴とする。原爆ケロイドも初めの間はこれと全く同じであったが、時日の経過と共に次第に縮小し、遂には自然治癒を営むことが判明したので、私はその原因を次のように考えた。ケロイドは前述のように体質異常者に発生するとされ、体質には内分泌が関係すると云われているので、原爆ケロイドは原爆放射線能によって内分泌腺、特に副甲状腺が一時的に障害されて生ずるものであって、その障害が次第に治癒に赴くに従って、このケロイドは縮小治癒したのであろう。数年後には、ケロイドを切除しても発生を見ないようになり、又放置しても完全に治癒するようになったのである。
 (二)白内障は眼科の病気で、水晶体後嚢に混濁を生じ、その結果視力が低下する病気とされている。老人にもこの病気が起こることもあるが(老人性白内障)、被爆者では大勢の人に発生したので、一時は「原爆白内障」と呼ばれ、学界をを騒がしたが、幸い進行が遅く、失明する人もいないので、現今では殆ど問題とされなくなったようである。
  (三)白血病は一種のがん病で、血液中に白血病が異常に増加し、これにかかると殆ど治癒を見ないで悪性疾患とされている。普通の人にも起るが、被爆者にはこれが多発し、近距離で被爆した者ほど発病率が高かったと云われる。
 長崎大学では夙に、故朝長正允教授が戦後早期から、原爆白血病の調査研究に従事していたが、同教授の死後は、現市丸道人教授が後を継ぎ、今日もなお鋭意研究中である。聞くところによると、現今では発病者も少なくなったとのことであるから、被爆者も幾分安心しているようであるが、まだまだ楽観出来ない疾患であろう。

 (四)以上のほかに後遺症としては、再生不良性貧血その他の血液疾患、肝臓疾患、肺癌、卵巣癌、内分泌臓器疾患、骨髄疾患、骨髄悪性腫瘍などが挙げられ、白血病と同様、国費によって治療が受けられる恩典が与えられている。
 最近肺癌の増加が特に注目され、その原因として、喫煙が重視されているが、市丸教授のお話によると、放射線影響研究所の調査(一九五○〜一九七二)では、被爆者の肺癌も非被爆者に比べて、二倍の発生率を示したとのことである。

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 むすび

 私は明治二十二年五月十五日、福岡県の片田舎の貧家に生れ育ちましたが、幸に軍人の叔父古賀三子吉と、炭坑主伊藤傅右エ門氏の援助により、東京帝大の医学部を卒業し、恩師近藤・青山両教授の御薫陶を受けて外科医となり、京城帝大小川外科の助教授を経て、長崎大学第一外科教室を担当すること二十三年、多数の門下生に支えられて、茲に無事に米寿を迎えることが出来ました。誠に幸運だったと云わざるを得ません。
 然し、その後太平洋戦争の敗戦と、原子爆弾被爆という前古未曽有の苦難に遭遇し、倖にも九死に一生を得ましたので、止むをえず、その災害の調査研究に半生を捧げるような、宿命を負わされてしまいました。
 私はこれまで度々原爆関係の委員会にも出席し、また紙上にも自ら経験したことを報告致しましたが、戦後に生誕された若い方々には、或いは耳新しいこともあろうかと思いましたので、この機会に、私の原爆体験記と原爆障害の大要を略記して、皆様にお目にかけようと、急に思い立ってこの小冊子を作りました。誠に杜撰な書で申訳ありませんが、若し私の日記や原爆障害に興味をお持ちでしたら、昭和五十七年に東京大学出版社から発行された拙著、「医師の証言、長崎原爆体験」を御覧下さいますよう、お願い申し上げます。この書は、東大教授吉沢康雄博士との共著になっていますが、私の日記も原爆障害の事も、全文が詳細に記載されていることを申添えます。
 今年は恰かも国際平和年に当ります。世界の平和を確保するためには、戦争、特に核兵器は絶対に排絶せねばなりません。原爆を体験した私は、声を大にしてそれを訴えたいと思います。(六一・五・五記)

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 写 真



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 私の略歴

 大正元年四月
 福岡県立朝倉中学校入学
 大正六年九月  第五高等学校第三部入学
 大正九年七月  東京帝国大学医学部医学科入学
 大正十三年四月  同学、同部第一外科助手(二年半)
 昭和元年九月  同仁会北京医院外科医長(二年半)
 昭和四年四月  京城帝国大学大学第二外科助教授(八年間)
 昭和九年三月  医学博士の学位獲得
 昭和十二年五月  朝鮮金羅南道立光州医院長(五年間)
 昭和十七年四月  長崎医科大学第一外科教授(二十三年間)
 昭和二十年八月  長崎医科大学附属病院長(三年半)
 昭和三十年二月  海外出張(米、英、西独、佛、瑞、伊)(四ヶ月)
 昭和三十二年四月  原子爆弾被爆者医療審議会委員(十八年間)
 昭和三十三年十月  長崎大学医学部長事務代理(一ヶ月半)
 昭和三十七年一月
 長崎新聞文化章受章
 昭和三十八年十一月  長崎大学医学部長事務代理(一ヶ月)
 昭和四十年三月  長崎大学教授定年退職
 昭和四十年四月  長崎大学名誉教授
 昭和四十年八月  健康保険諌早総合病院顧問(十七年半)
 昭和四十年九月  佐世保中央病院顧問(十六年半)
 昭和四十六年四月  勲二等瑞宝章受章
 昭和五十年六月  放射線影響研究所理事(八年間)
 昭和五十六年十一月  原子爆弾被爆者医療審議会専門委員(二年間)
 昭和五十八年七月  放射線影響研究所名誉顧問

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ENGLISH
  長崎原子爆弾の医学的影響  
  原子爆弾救護報告書:永井隆  
  原爆の医学的影響:西森一正  
  私の原爆体験と原爆障害の大要:調 来助  
  調博士の調査資料  
  マンハッタン最終報告書  
  原爆被災資料  
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  「追憶」  
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