原爆の医学的影響:西森一正
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長崎大学名誉教授  西森一正先生
   
 
日時: 平成7年6月29日(木)
会場: 長崎大学工学部特別講義室A
   
 
INDEX :
はじめに
日中戦争,第二次世界大戦と学制,学園生活
原子爆弾,長崎に投下,昭和20年8月9日午前11時2分
原爆の人体におよぼす影響
原子爆弾症
おわりに
西森一正名誉教授プロフィール
西森一正



 はじめに

 私は医学部を定年退官して10年になります。長崎が原爆をうけて50年になりますので,色々の催しが行われていますが,大学で原爆に関する講演をしてくれと学長から要請がありました。多くの被爆者,原爆症の研究者がいる中で,この老骨が呼び出されたのには理由があると思います。原爆が投下されたとき,私は医学部の最終学年で卒業1カ月前でしたが,附属病院外来で教授と患者の診察中でした。一瞬,体は吹き飛ばされ重傷を負いました。近距離被爆者の数少ない生き残りの1人であります。原爆に関して私は3つの顔を持っていますが,これが第一の顔であります。卒業後,病理学を専攻し,40年の間に約15,000 体の病理解剖例を検索しましたが,病理学的立場から,原爆被爆者の病変を詳細に研究してきました。これ,原爆障害研究者としての第二の顔であります。次に,被爆者援護のため,原爆2法がありますが,この実施に当る厚生大臣の公的諮問機関である原子爆弾被爆者医療審議会が厚生省に設けられています。この審議員を15年近く続けていて,現在も委員であります。即ち政府の被爆者行政に参与しているわけで,これが第三の顔であります。
 今日は横山学長の要請で,主として第二の顔でお話ししようと思います。本論に入る前に,日本を取り巻く当時の世界状勢と学園生活に少し触れておきたいと思います。

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 日中戦争,第二次世界大戦と学制,学園生活

 昭和12年(1937年)北京郊外で起きた蘆溝橋事件は通州事件,上海事件と拡大し当時支那事件と呼ばれていた日中の紛争はやがて徐州,広東に及ぶ日中の交戦状態となり長期化の様相となり,1938年には国民総動員法が発令され,中国との全面的戦争となりました。後にこれを日中戦争と呼ぶことになったが,中国各地で勝利を収めていた日本は,軍備を増強し,軍事大国への道を進みはじめていました。世界最強の軍艦と言われていた戦艦武蔵の建造が長崎三菱造船所で始められたのも昭和13年でありました。
 中国での戦線の拡大にともない,多くの軍医が必要となり各大学医学部および旧6医科大学に臨時附属医学専門部が設置されることになり,本学でも昭和14年に第1回入学式が行われ,昭和 17年1回生が卒業しています。私事に触れて恐れ入りますが,私は昭和15年地元の旧制高知高等学校に入学しました。入学当時は日中の紛争は続いていても,それほど緊迫した状態ではなく,伝統的な自由奔放な高校生活を送ることが出来ました。
 日本の中国大陸への進出を機に日本に対する米国との緊張は日増しに増大し,日本の軍備増強もますます進んでいきました。
 そして昭和16年12月,日本の真珠湾攻撃から太平洋戦争勃発となります。
 学制制度が改められ,高校,大学ともに繰り上げ卒業が実施されました。私は昭和17年9月,半年繰り上げで10月大学に入学しましたが,当時は軍需産業方面の学部が花形で工学部,理学部に入学するものが多く,医学部はほとんどの大学で定員に足らず,長崎医大でも 80名の定員に対し,第一次受験者は30名位で,入学試験らしきものはなく,角尾晋学長に面接し10分程,私の郷里の寺田寅彦の話しをしてその場で入学が決まった次第でした。
 緒戦,破竹の勢で中国,マレー半島,太平洋の島々に進攻した日本軍も,米国および連合軍により敗戦が広がり,日本本土への空爆が多くなりましたが,中国に基地をもつ米国爆撃機による空襲が頻繁に九州各地に行われるようになりました。当時日本から中国への爆撃は大村の空軍基地から出ていたので,大村の空軍基地がしばしば爆撃を受け,その度に長崎から大村に救護に出かけたものでした。
 長崎に原爆が投下されるまでに,長崎市は5回の空襲を受けています。これらの空襲で長崎の造船所などが相当の被害を受けましたが,長崎原爆戦災誌などに詳しく記載されていますので,大学に関係したものだけ簡単に申し上げますと,
 第二次空襲では長崎駅,大波止に乗車,乗船を待っていた多数の市民が空爆で死亡,重傷を負いました。その時,私は外科学の卒業試験中だったので,大学附属病院に運ばれた多数の負傷者の手術をする調来助教授のお手伝いを2日程,徹夜で行いまして,調教授の卒業試験では,もう試験せんでよかろうと言われたものでした。
 第三次空襲では大橋町にありました,現在の教育学部の前身,長崎師範学校の校舎が爆弾により破壊されました。
 昭和20年8月1日の第五次空襲は最も大きな規模のもので,三菱造船所,三菱製鋼所などが被害を受けましたが,大学の附属病院には多数の大型爆弾が投下され,診療各科は殆ど機能麻痺に陥りました。病院の屋上にはペンキで赤十字のマークを大きく書いてありましたが,爆弾はそういうものを無視し,投下されました。このとき,学生3名が死亡し,負傷者も多数出ています。戦況はますます不利となり,各方面で日本軍は全滅や撤退を余儀なくされますが,政府は一億玉砕の意向で若人,杜年はほとんど戦場に送られ,学生もペンを銃に代えて出征することになります。これ即ち学徒出陣でして私の友人でも多くの戦死者を出しました。長崎経済専門学校,長崎師範学校の在学生も多くが学徒出陣となった次第です。医学部だけは,卒業するまで兵役が猶予され,4年を3年で卒業することになりましたが,日曜,休暇全廃の一日も休みのない講義実習が続きました。また,入隊しない学生も殆どの兵器工場などに学徒動員として,国民すべてが戦争に参加したわけです。

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 原子爆弾,長崎に投下  昭和20年8月9日午前11時2分

 原子爆弾直後の惨状については被爆者の証言,あるいは記録などにより,とくに長崎の皆様は相当詳しく御承知のことと思いますので,多くを触れませんが,私個人の記録を少し申し上げます。
 原爆被爆の前日,8月8日は12月8日の開戦記念日として毎月8日に全学職員,学生が運動場に集合し,学長の訓示を聞くことになっていました。角尾学長は東京出張の帰途,8月7日に,一面焼野ケ原となった広島の惨状をつぶさに見て帰学され,特殊な爆弾により広島は完全に破壊されたとの報告がありました。
 われわれは7名ずつのグループで臨床各科の卒業試験を受けていて,ほとんど全科が終了していました。皮膚科の卒業試験も無事終わったところで,8月9日の朝,われわれのグループは皮膚科の研究室に集まっていました。前日の角尾学長の報告,とくに特殊な爆弾について議論し合っていました。友人の一人は太陽光線を利用した爆弾だと言い,他の一人は傘形爆弾だと想像しましたが,その中の一人は原子爆弾という言葉は使いませんでしたが,原子を応用した爆弾ではないかと発言し,今考えると随分化学に詳しい友だったと思い出します。皮膚科の北村包彦教授が廊下を通って外来診察に出て行くのを見た私は,教授の後について,外来病棟に行き,教授が患者を診察するのを教授のうしろで見ていました。
 突然,物凄い稲妻,シャーという炸裂音,それと殆ど同時にバーンという破裂が襲い体は部屋の隅に吹き飛ばされ,一瞬失神しましたが,部屋の隅に教授,医局員,看護婦が一かたまりに投げ出されていました。私は爆弾の直撃を受けたと思ったのですが,部屋が崩れもうもうとして息が出来ないので,空気を吸おうと屋上に,壊れた建物の間を通り上り,屋上から周辺を見たとき,病院から見えるものは全て崩壊していて,この世は終わったと感じました。なんとか病院入口まで下ってみますと,もう既に死亡したもの,衣類ははがれて全身ただれた者,体から血の吹き出している者など,玄関にあふれ,阿鼻叫喚,まさにこの世の生き地獄とはこういう状態を言うと思われました。私は全身から血が吹き出ていましたが,崩壊した建物の下敷きになった人を引き出していました。問もなく各所から火災が起こり,動くことの出来る人は病院の裏山に避難していったのですが,病院裏の斜面は,既に息絶えた人,重傷の人達で一杯でした。研究室で爆弾論議を続けていたグループの1人に裏山で会い,彼は外傷も熱傷もほとんどなく元気そうに見え,私に手を貸してくれて裏山の山腹まで登りました。弘法大師がこもったと言われる穴弘法の下の平らな所で横たいましたが,それから出血多量のため失神し,意識が回復したのは夕方近くで見下ろすと,大学も附属病院も全く焔に包まれ,太陽はぼんやり見える状態でした。金比羅山を越えて,伊良林小学校裏の下宿に辿り着いたときは日もとっぷり暮れていました。後で知ったことですが,病院の北側に面した研究室にいたわれわれのグループは全員死亡しています。
 教育学部の記録によると多くの学生は入隊,あるいは学徒動員で学校に居た数は多くないのですが54名の原爆死が記載されています。三菱兵器製作所など軍需工場に学徒動員され,ここで犠牲になった学生も少なくありません。(表1,表2)

表1 昭和20年8月9日在籍学生の動態
学 年 本 科 予 科
3年 2年 1年 2年 1年
在 籍
165人 176人 235人 81人 80人 737人
入 隊 149人 137人 33人 1人 0人 320人
休 学 2人 3人 7人 1人 1人 14人
動 員 9人 36人 176人 72人 0人 293人
残 留 5人 0人 19人 7人 79人 110人
原爆死 3人 4人 30人 9人 8人 54人

表2 三菱兵器製作所(大橋工場・茂里町工場)
死亡者 2,273人
職員 335人
工員 1,358人
学徒 580人
負傷者 5,679人 職員 361人
工員 4,260人
学徒 1,058人
合 計 7,952人

 医大および附属病院では出ていた空襲警報が警戒警報に変わったため,講義は正常に行われ,病院での診療も開始されていました。基礎医学教室と大学本部は原爆の直下にあり学生は机に向かったまま,全員が爆死し,教職員,学生に一人の生存者も居りません。表3に414名の死亡者が記されていますが,死亡していない学生は当日大学に出て来ていない人です。

表3 長崎医科大学在籍学生の死亡者
区  分
在学生数 死亡者数
医学部 2年生 約100人 64人
1年生 約120人 580人
医 専 2年生 約160人 110人
1年生 約200人 167人
約580人 414人

 附属薬学専門部は当時学生数201名在籍していたが,1年生は飽の浦の三菱電機製作所,2年生は熊本県水俣の日本窒素工場,3年生は福岡県吉富町の武田製薬工場に学徒動員中で被爆を免れましたが,在校中の2教授と生徒36名が死亡しました。
 大学の職員,学生の犠牲者を表4に示しました。その総数は892名になります。

表4 長崎医科大学関係の犠牲者
職員
教職員 学長及び教授 17人 42人 892人
助教授及び講師 10人
助手及び副手 15人
事務職員 事務官及び事務員 206人 206人
看護婦 看護婦及び助産婦 51人 109人
学生生徒 看護婦生徒 看護婦・助産婦生徒 58人
医学生 医学部学生 194人 535人
附属薬専生徒 194人
薬専生 附属薬専生徒 36人


 終戦と同時に,3年に短縮されていた修学年限が4年に復活し,旧大村海軍病院,続いて諌早製糸工場跡(現,健康諌早病院)に大学の仮本部が移され,生き残りの学生の講義もわずかに行われたようですが,重傷の私は全く参加出来ませんでした。昭和21年9月諌早の仮校舎で生き残り33名と教授4名が集まり,我々の卒業式が行われましたが,お祝いの御馳走は蒸芋3個てあったことを忘れません。
 占領軍司令部の命令により,医学部卒業後のインターンが義務づけられ,医師国家試験制度が導入されました。従って,われわれのクラスが国立大学としては第1回のインターン,第1回医師国家試験を受けたわけです。
 放射線障害のため白血球数は3,000に落ち,全身30カ所におよぶ外傷のため健康の回復は長びきましたが,田舎で栄養が摂れたためか徐々に元気を取り戻して来ました。
 昭和22年12月,東北大学から松岡茂教授というすばらしい教授が病理学の主任に就任すると聞き,最初の弟子として昭和22年暮れ病理学教室に入局しました。満州医科大学,台北帝大から引き揚げて来た教授や各大学から各科の教授が次々着任したが当時は研究器具も薬品も手に入らず,教授達の作る野菜の出来が教授の評価となっていました。
 焼けた病院の地下一階を修理して,学生の実習室に当てましたが,先輩から寄贈してもらった顕微鏡も学生数の半数しかなく,クラスを2つに分けて,午前,午後と実習を行いましたが,先日久し振り長崎大学の名誉教授の会に出てみますと,実習で教えた学生が,既に定年退官して名誉教授になっていたのには驚きました。

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 原爆の人体におよぼす影響

 原爆は強大なエネルギーによる,物理的破壊,人体への影響,社会構造の破壊と3つに分けて考えられますが,ここでは人体におよぼす影響について概要を述べることにします。
 恩師松岡教授は血管病理の草分けと言われた人で,教室の研究は脳血管障害を中心とするものでしたが,広島,長崎の原爆障害に関する調査研究が文部省,厚生省の特別研究班として始められ,これらの研究班の一員として参加したため,原爆障害についての調査研究には早くより着手しました。
 今日は時間がないので被爆後の救護活動については触れませんが,大学では臨床教授を隊長として看護婦,学生で11の医療隊を編成して非常事態に備えていましたが,病院は壊滅し,教授はじめ隊員の殆どが死亡し,重傷を負ったため,実際に活動出来たのは,滑石に救護所を置いた調教授の第6医療隊(ここで角尾学長も死去されました)と被爆後25年して記録が民家から発見され,その実態が明らかになった永井隆隊長の三つ山に於ける第11医療隊の救護活動だけでありました。
 病理学的調査では九州大学,熊本大学,宇部医専(現山口大学)の病理教室,広島には東大,京都大,阪大などの病理教室陣が現地に入り,被爆後の非常に困難な状況の下で,被爆後4カ月までの所謂原爆症急性例の死亡者の病理解剖が,広島で145体,長崎で94体行われています。
 三宅仁(東大),木下良順(阪大)両氏の名前で広島,長崎の病理解剖例を総括して,1947年,第12回日本医学会総会にメ原子爆弾症の病理モと題して報告されました。
 この頃から原爆の影響に関する学会発表が占領軍司令部(GHQ)から強く規制されるようになり,学会発表はGHQの検閲を受けなければならなくなりました。当時既に朝鮮半島での米・ソの対立が強まりつつあったわけで,原爆の人体への影響も軍事機密に属していたと考えられます。従って,この頃から原爆障害に関する研究発表は非常に少なくなりました。
 困難な条件下で広島,長崎で行われた病理解剖の臓器は米軍により全部米本国に送られ,日本には殆ど残っていませんでした。日本から持ち帰った病理解剖例を総括して,Liebow, A.A.らによる"Pathology of atomic bomb casualties"がAm.J.Pathol.に 1949年発表され,最も詳しい報告書となりました。
 私は昭和33年12月(1958年)から35年7月まで米国ルイジアナ大学に招聘研究員として血管病理研究のため滞在しましたが,その間ワシントンを訪れる機会がありまして,ここで米国の軍病理研究所(AFIP)を見ることが出来ました。この中に広島,長崎での被爆解剖例の全臓器が保存されていました。
 昭和40年,恩師松岡教授が会長となり,日本病理学会総会が長崎で開催されました時,総会の前夜,原爆に関与した病理の先生方にお集まりいただき,報道関係を入れない座談会を持ちました。席上,苦労して行った病理解剖例を全部持ち去った米国に強い怒りを現す教授もいましたが,米国で御世話になった教授達もいて,2通りの記録を作り,余り差しさわりのない1通を学会誌に載せた次第でした。私は既に教授になっていましたが,西森さんは教室に居てよく助かりましたねという質問に私はまだ学生でしたと答えて,君はてんで若いと笑われたのを思い出しますが,その席上,私はワシントンのAFIPで見て来た被爆剖検例の臓器の一部を返還して貰いたいと提言したところ,全員の同意を得て臓器返還の交渉が始まりました。
 外務省を通ずるなどの難しい手続きを経て,昭和48年,広島,長崎分が臓器,写真,記録のコピーなどとともに送られて来ました。広島,長崎両大学にあります原爆被災学術資料センターはこれらの資料の保存と利用のため設置された施設であります。

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 原子爆弾症

1.原爆の物理的性状
 広島と長崎に投下された原爆は形も性質も異なり,広島の原爆はウラン235 を長崎の原爆はプルトニウム239が原料でありますが,いずれも原子核に中性子を衝突させて核分裂連鎖反応を超短時間で生じさせ,爆発するエネルギーを兵器として用いたものです。両原爆のエネルギーを比較すると,高性能通常爆薬TNTに換算すると広島原爆は12.5kt,長崎のそれは21ktと計算されています。
 原爆爆発により
1. 爆発点では摂氏数百万度に達する熱線を生じ,高度の熱傷を生じさせます。
2. 爆発の中心部では何十万気圧という,超高圧が生じ,これが爆風となって人体を直接傷害したり,建物などを破壊します。
3. 原爆最大の特徴は各種の放射線を放出することで,とくに_線と中性子は人体に大きな障害を与えますが,残留放射線もこれに加わり各臓器に強い病変を生じさせます。

 即ち,熱線,爆風,放射線の3つの要素が複雑に作用するため,被爆者の症状や臓器病変も甚だ多様であるわけです。
 被爆者がどれだけの線量を受けたかは_線と中性子の線量の合計で表しますが,広島では中性子の割合が非常に高く,長崎では_線が多いのが大きな特徴です。

2.原爆による身体的障害
 熱線,爆風,放射線の総合的障害を一般に原爆症と呼んでいますが,さきに述べた三宅,木下の報告,米国病理学会での発表,また返還された被爆資料の再検討などから,われわれは原爆症を時期により次のように分類しております。
 なお,原爆症を大きく2つに分類しますと,被爆後4カ月までを原爆障害急性期病変,4カ月以降,現在,さらに遺伝的影響を考えると長い将来に及びますが,4カ月以降を原爆後障害,あるいは晩発障害と呼んでいます。医学部に付設されている原爆後障害医療研究施設はその名を示す使命をもった施設であります。

a.原爆障害症急性期病変
1) 急性期(第I期)0〜14日
   広島,長崎とも死亡者の最も多かった時期で,死亡者の90%以上が即死または即死に近いもので,建物の崩壊による致命的外傷,圧死と高度の熱傷および焼死であります。しかしこの時期既に放射線による造血器障害が生じ,臨床的には白血球の減少が始まり,出血傾向も見られています。
2) 亜急性期(第II期)15〜35日
   第I期にすでに放射線による障害が始まっていますが,臨床的にも病理解剖学的にも急性放射線障害が著明に見られた時期で,臨床的には高熱,全身倦怠,歯肉出血,血便などの症状が強く,外傷,熱傷のない被爆者もこのような症状が増悪して,死亡するものが続出しました。また脱毛もこの時期に始まっております。病理組織学的には造血器の障害が頭著で,骨髄を見ますと,白血球系,赤血球系,血小板の生成細胞である骨髄巨細胞の全系にわたり無形成あるいは低形成の像であたかも再生不良性貧血の骨髄所見を示しています。即ち,放射線が最も早く,強く障害するのは血液を造る場所,骨髄であります。
3) 亜慢性期(第III期)36〜60日
   この時期での死亡者は造血機能低下による感染症によるものが多く,黄疸も見られますが,症状の比較的軽度の者は造血機能も回復に向かい,白血球や血症板数も徐々に増えて来ます。
4) 慢性期(第IV期)61〜120日
   この時期にはほとんどの症状が一応回復に向かい,脱毛後の発毛もみられるようになりますが,全身るいそう,肝,腎の機能低下で死亡するものが相当数見られました。
付) いわゆる原爆ケロイド
   熱傷部に肉芽を形成し,これが著明に隆起してケロイドになる人が多く,これは普通の火傷や手術痕に見られるケロイドとは症状が異なり,発生率も非常に高く,その成因についてはまだ定説がありません。このケロイドは4カ月以降が最高で,時期的には後述する後障害期に入りますが,熱傷からの連続病変としてここに述べますが,ケロイドの隆起は1年半くらいで止まり,次第に硬い瘢痕となり今日に至っていて,現在被爆者に見える外観を残しています。

b.原爆後障害
 時期的には,被爆後4カ月以降,原爆とくに放射線の影響により生ずる可能性のある疾患を後障害と呼んでいます。とくに問題となるのは白血病や各種の癌ですが,後障害の調査研究で特に難しい点は原爆とは無関係に生ずる一般的な白血病や癌と原爆によるものとの相違が全くないということです。従って被爆線量と疾病との関係を疫学的に非被爆者と対比して推測するしかありません。
 即ち原爆特有の白血病とか癌はないということです。勿論,実験データーは参考にいたします。
1) 原爆白内障
   通常,人は高齢になるに従い,眼の水晶体に混濁が出来,視力が落ちて来まして,これを老人性白内障(俗にいうそこひ)と言いますが,近距離被爆者では,若い人でも白内障が高い頻度で発生しました。これは実験的にも確かめられていまして,水晶体の混濁の部位が老人性白内障とは異なることから,診断出来ますが,被爆者の老齢化が進み,原爆白内障に老人性白内障が重なって,診断困難な例も見られるようになりました。
2) 白血病
   X線を取り扱う医師,技師,看護婦には白血病の発生率が高いことが知られていたので原爆被爆者の白血病発生が心配されていましたが,それが被爆後5年頃から現実となって現れました。図1に広島,長崎の白血病発生分布を 5年単位にまとめて示していますが,被爆線量の多いものほど発生率は高く,被爆後5年から数年非常に高い発生を示しています。
  血液由来の腫瘍の一つである多発性骨髄腫については,従来,原爆被爆とは関係がないとされていたが,市丸道人(長大・原研元教授)らの調査また,われわれの剖検例による検索から,高齢者で高線量を被爆したもので,発生率の高いことが指摘されています。
3) 各種の癌
  イ)甲状腺癌
 甲状腺は放射線に感受性の強い臓器の一つで,もともと甲状腺疾患は女性に多いのですが,近距離で若年で被爆した女性に高い発生率で癌が現れました。この発生は白血病よりおくれ,被爆後8年位から目立つようになりました。
ロ)乳癌
 乳腺も放射線の影響を受けやすい臓器であることが知られています。多くの調査研究がありますが,総括すると,若年時に被爆した女性ほど,高い乳癌の発生が見られます。
ハ)その他の癌
 肺癌や消化器など諸種の癌についても,多くの調査が継続されており,癌の種類により発生する時期も異なる可能性があり,更に調査は行われるものと思います。
4) 胎内被爆とくに原爆小頭症
   母親が妊娠18週未満の時期に被爆したものでは,胎児の多くは死産,あるいは流産をしていますが,出生した子供もいます。これらの子供は全身の発育障害,知能遅滞を示すものがあり,特に頭囲が小さい特徴をもっていて,これを原爆小頭症と呼んでいます。長崎の例では16歳で死亡しましたが病理解剖で大脳の発育が著しく障害されていたことがわかりました。
5) 遺伝的影響
   放射線障害として当然遺伝的影響が問題になります。被爆直後から多くの調査が色々の面で行われて来ているが,幸いなことに広島,長崎の被爆者から生まれた子供に奇形が多いとする報告はありません。動物に放射線を照射すると奇形の発生率は高いとする報告はあるが,環境因子の複雑な人間の社会ではそれらに隠されて統計上出ないとの見方もあります。遺伝研究の専門家は5〜6世代まで追跡しないと結論を出してはいけないという考え方もあって,遺伝学的調査は将来も継続されると思うが,被爆者が広く分散していることと,プライバシーの問題もあって,調査には相当の困難が予想されます。
 被爆者では染色体異常を示す頻度が非被爆者より高いことが報告されていますが染色体異常がただちに病気と結び付くものではありません。また,被爆者の子供には染色体異常は見られておりません。

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 おわりに

 戦前,戦中,戦後の学生生活を送った私の目から見た,日本の動き,大学の様子などについてお話ししましたが,重傷を負ったので長崎全般の状態については十分観察が出来ておりません。
 長崎医大の崩壊と教授はじめ指導者のほとんど失った実態を見て,大学は再建の可能性がないと判断した政府は基本的に廃校を決めいち早く附属臨時医専を廃校とし,生き残りの在校生は各大学の専門部に転校し,一部は臨時の長崎高等学校を作り入学させました。
 占領下では占領軍司令部が最高の行政機関でしたので,地元有志,同窓会,大学が懸命に存続を請願した結果,廃校を免れたのでした。
 原爆の人体に対する影響に関する調査研究は,唯一の被爆医学部であり,多くの先輩,同僚が犠牲となった中で生き残った私にとっては,宿命的な使命との思いから,40年間出来る限りのことをしたと思っています。核兵器廃絶に対する運動,考え方には色々あると思いますが,私は医学的立場から,被災の実態を世界の人に認識してもらうことが最も効果的方法と考えて来ました。
 話しを終わるに当って,とくに強調したいことは,今日の話しは50年前の原爆についてであります。その後の各国の核兵器開発はすさまじいもので,物凄く高性能のものと聞いています。
 冷戦の終わった現在も,核保有国は依然として開発を続け,被爆者や平和を願う人々の声も核兵器廃絶につながっておりません。
 50年前のいわば幼稚な原爆でも,このような災害を与え,その影響が長く続いていることに思いを致し,地球上から核兵器を根絶することに協力していただきたいと思います。
 母校の皆様にお話しする機会を与えて下さいました横山学長はじめ関係の方々に御礼申し上げ,御静聴を感謝します。

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 西森一正名誉教授プロフィール

 (出身)
 高知県高岡郡越知町
 昭和15年4月〜17年9月  高知高等学校 卒業
 昭和17年10月〜21年9月  長崎医科大学 卒業
 昭和28年5月15日  医学博士の学位取得
 昭和22年12月23日〜28年1月15日  長崎医科大学 助手
 昭和28年1月16日〜28年10月15日  長崎医科大学 講師
 昭和28年10月16日〜29年3月31日  長崎医科大学 助教授
 昭和29年4月1日〜39年8月15日  長崎大学医学部 助教授
 昭和39年8月16日〜61年3月31日  長崎大学医学部 教授
 (医学部附属原爆後障害医療研究施設病態生理学部門担当)
 原爆後障害医療研究施設長及び原爆被災学術資料センター長を歴任
 昭和56年〜現在まで  厚生省原子爆弾被爆者医療審議会委員
 昭和61年5月23日〜  長崎大学名誉教授
 平成6年11月23日  勲三等旭日中綬章授賞
 平成12年12月10日  逝去、享年80歳

原爆症に間する演者の主な著書
 1. 「原水爆を考える」原水爆禁止長崎県民会議 1975年
 2. 「広島,長崎の原爆災害」岩波書店 1979年
 3. 「原子爆弾症」現代病理学大系第10巻,中山書店,1984年
 4. 「長崎原爆戦災誌」第4巻学術編,長崎市 1984年
 5. 「核を考える」九州大学出版会 1985年


血染めの白衣

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