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医家原子爆弾体験記録

医師としての原子爆弾体験記
長崎医科大学皮膚泌尿器科教室副手補 黒木重徳(男25才)

8月9日
 爆撃を受けし当時は爆心地より約1粁東南方大学附属病院本館なる皮泌科外来診察室に大机を前に北面して左より教授、小生、東君、金子医局員の順に椅子に腰掛ていた。自分は白シャツと白衣を着ていた。診察開始后半時間位して敵味方不明爆音を後方上空に聞いて間もなく、突如として急降下の爆音と変じたので突差に椅子を引いて臥せ易い様にしたと当時に閃光が輝いたのでそのまま窓際の顕微鏡台の下に目と耳を塞いで伏臥した。伏すると同時に爆発音、物のくづれる音がして一面全くの闇と化し何か変な臭気がして来た。伏していたけれども何か息苦しいのと不安の為起きて窓辺に行き外を眺めたら(下の坂本)町は一面の火の海と化していた。
 此の間約2~3分か4~5分位と自分では思われた。東側丘上に退避の途中沢山の負傷者がいるのに驚き始めて被害の大なるを知り、すぐに皮膚科病棟へ駆けて行って持てるだけの衛生材料を鞄に入れて引返した。(裏山へ登って行った)
 創傷は出来るだけ止血することに重点をおき、マーキュロクロームを塗布した上に切ガーゼをあてた。深い傷は圧迫する位にして繃帯した。為にガーゼは沢山費したが割に止血には効があった様に思われた。その后も止血は殆んど全部圧迫法を用いた。止血の成功した者には出来るだけ強心剤を注射し、劇痛を訴へる患者には強心剤とモルヒネ一筒を注射した。
 かくするうちに自分も疲労と飢餓、口渇の為に一時休息したが暫くすると何となく悪心を来したので塩酸モルヒネ、コラミンを各一筒注射したがこれでも良くならない為更に同じくモルヒネ、コラミンを注射した。かくするうちに多少気分もよくなり元気を恢復したので再び出来るだけ治療をして歩いた。
 出血患者は、次第に喝を訴へたけれども水がないので仕方なく谷間の小溝の水を汲んで来て之を飲ました。

附記
 当日は自分は4、5日前からデング熱の為就床し且腹を壊して下痢していた為悪心はその為のみと信じていた。
 当夜は行く所もなかったので止むなく野天に寝ることにした。然し空襲と過労と野天の畠の中の為に眠れなかった。
 此の間患者はしきりに冷気を訴えたが自分はシャツ1枚に背広1枚きりだったけれどもそう寒いとは感じなかった。

8月10日
 睡眠不足の為疲労恢復せず、負傷者には重傷者にのみ強心剤を注射して歩いた。その后救護隊が来たので患者をさがし集めて山より降ろし皮膚科の防空壕にいれた。此の日は患者の移送で一日を過ごし治療は強心剤を注射した位で余り出来なかった。移送して来た皮膚科の看護婦肱黒サエ(19才)は急に容態が悪化強心剤を続いて3本注射したが全身火傷の為遂に午后4時頃死亡した。
 防空壕内は湿気が多く且暗い為に治療もし難く換気が悪い為悪臭が発生すると容易に消えず、不潔極まるものであった。此の日始めて握飯の配給があり食事した。中山医局員を始め少数の看護婦は多少の無理を推して歩いて帰省した。自分は緊張していたせいか割に元気で働けた。別に悪心その他の異状はなかった。この夜は壕内に一夜を明かした。
8月11日
 軍隊の救護隊が来てくれたので、皮膚科地下室を片附けて貰い、ふとんを病室から運び出して仮の病室を作り残った患者を全部地下室に移し、早速この日からリバノールで創傷の湿布を行った。
8月12日
 当日より薬品、器具が揃い病室も整ったので本格的に治療を開始した。オキシドールで傷を洗浄しリバノール湿布をなし且強心剤、スルファミン剤、葡萄糖、ビタミンBを皆に注射した。
 患者の傷は大多数がガラス破片創、その他の破片創で骨折が2名あったのみで火傷は皆無だった。

附記
 器具は洗面器で煮沸消毒をなし吾々は手指をクレゾール液で消毒して治療をした。
8月13日より18日まで
 その后殆んど毎日同様な治療を続行した為、日増しに傷もきれいになり食慾も恢復して来た様であった。歩けなかった者も歩ける様になり、発熱した者も段々と解熱して元気づいて来た。然しその間に患者は家の者が迎えに来たので1人減じ2人減りして少くなって来た上食糧、薬品も不足勝ちとなったので遂に解散することに決定した。
 此の間患者の中で脱毛、血便、喀血、皮下出血斑等は認めなかったが下痢、発熱の患者は2、3あった。
 自分にとっては此の間1日毎に仕事の量に反比例して疲労を覚えるので不思議に思い、外の医局員の人に話したら自分もそうだ話して居られた。又自分も疲労恢復の為葡萄糖やビタミンBの注射をした。
19日以降
 解散后1日おいて自分は帰省の途についたが、途中の鉄道が4箇所も破壊されていたので帰りつくのに約3昼夜を要した。その間食う物とてなく帰りついた時は全く疲労の極動かれぬ位だった。帰省后4、5日頃より毎朝歯を磨くとき出血しやすいのに気付き段々ひどくなる様であり且又唾を吐いても血が混じてくる様になり不思議に思っていた所、新聞に原子爆弾症に関する発表が掲載されたのでロヂノンカルシウム40㏄とV-B、鉄剤を用いて治療した所自然に出血も止り疲労も大分恢復して来たが、中々旧には速に復しなかった。殊に相当期間(20日間位)脱力感がとれず仕事をするとすぐに疲労を覚えて長続きしなかった。然し之は又一面には終戦と言う大きな精神的衝動も加っているとも思われる。その外には特別異常を認めなかった。
(昭和20年11月22日)



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医師としての原子爆弾体験記① 医師としての原子爆弾体験記② 医師としての原子爆弾体験記③
医師としての原子爆弾体験記④ 医師としての原子爆弾体験記⑤ 医師としての原子爆弾体験記⑥
医師としての原子爆弾体験記⑦ 医師としての原子爆弾体験記⑧ 医師としての原子爆弾体験記⑨
医師としての原子爆弾体験記⑩ 医師としての原子爆弾体験記⑪ 医師としての原子爆弾体験記⑫
医師としての原子爆弾体験記⑬ 医師としての原子爆弾体験記⑭  
所蔵:長崎大学附属図書館医学分館


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