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医家原子爆弾体験記録

原子爆弾遭難記 昭和20年11月30日
長崎医科大学外科助手 金武三良(37才)

 あの日はからりと晴れた暑い日だった。8月1日の爆撃に泡を喰って子供達を佐賀県の田舎に避難させ、数日振りで帰って来たのが前日の8日である。当日も例の如く早朝から空襲警報がかかっていた。全員警報時の各自の持場で待期の位置に就いていた。自分は医局階下で大和田野さん、田辺君、数人の学生達と広島の新型爆弾に就いていろいろと端摩憶測の雑談を交したりしていた。
 午前10時過ぎだったと思う、空襲警報が解除されたのでホッと一息ついていると古屋野先生の御回診が始まった。今日は重症患者だけである。
 回診が終った。今度は外来診察である。
 プロフェッサーはもう診察室に出られた様である。自分は当日は診察室掛りだったが、旧知のアストマ患者近金君がつけ換へに来たので玄関わきの外来治療室で手当をする。朝からの警報の為か、外来患者は至って少い。その時刻に外来治療室に居合せたのは患者近金君(死亡)他に1人(生死不明・当日は元気だった)看護婦3人即川場(生)武藤(死)川原(生)自分、4、5人の学生。学生達は北よりの窓ぎわに腰かけたり立ったりして雑談していた。
 近金君の付換おわってピンセット片手にホッとした時である。道の尾の方角で何か鈍い爆音の様なものが聞えた。誰かが『変だなあ』と云った。その遠雷の様な音は何だかこちらに近づいて来る様な気がした。突然窓外でピカリと光るものがあった。窓ぎわにいた学生の一人があっと叫んだ。自分は本能的に治療台の脚下にうずくまっていた。その瞬間に巨大な圧力が襲って来た。両膝をついて両手を床に支へた。圧力は部屋に充ちた。いや建物全体に殺到した様に感じた。爆弾は近いぞと心に思った。圧力は波状をなして背部の一点に集中して来る様だった。それは恰もポンプのフォースで熱気を背柱の一点にぶっかけられている様な感じだった。チカチカと背骨が痛んだ。世界がゴーと轟き鳴っていた。パラパラと天井から何か落ちて来て頭や顔に当った。目を開いてみた。闇黒だった。何故こう真暗なのだろうかと不思議に思った。ただ暗黒の中に窓外の一天がパッパッと光っていた。部屋はまっ黒いガスで充満していたのだ。異様の臭気にむせた。いくら目をみはっても何も見えないので埋められたのだろうと思った。自分の躰は左へ左へ(南方へ)と圧された。抵抗しようとすると靴がすべった。
 すべて之等は時間にして僅か一分間そこそこの出来事だった。唸りと圧力から解放され自分は部屋の中に立ち上っていた。黒いガスが次第に薄らいで視野が開けて来た。右手がチクリと痛んだ。見ると腕関節撓骨よりの所に3センチの赤黒い創がパクリと口を開いていた。幸に動脈をはづれている。出血もあまりない。薄暗い空気を掻き分ける様な気持で廊下を横ぎり向いの部屋の壊れた窓を跨いで戸外に出た。視野の届く限り世界の様相は一変していた。大木は一葉を止めず裸となって、薄霧の中に傾き立っている。巨大な煙突は、くの字にひん曲っている。玄関の前栽の芝の上に若い男が1人、服はぼろぼろになり、頭、顔から全身焼け爛れて呻いている。医局、病室の方が気になったが、家屋の倒壊でいけそうにないので方向を山にとった。
 恐ろしく強力な爆弾に違いないが、再度の襲撃がありはしないかと云う漠然たる不安があった。
 避難者の列は期せずして山へ山へと向った。多くは、大小の負傷をしていた。衣服を引き裂れ痛ましい火傷の皮膚を露わにした人もあり、頭から血みどろの人も見られた。歩く中に左の側胸部と左大腿がチカチカと痛む。気が付いて見ると白い開襟シャツは血に染っている。その日はなぜか廻診着をつけずに紺色の夏服一貫だった。ズボンの所々に穴があいていた。ハンカチで右腕の創を繃帯する。
 畑には蔓から飛んだ南瓜がゴロコロ転り、芋は台風に揉まれた様にあおぐろずんだ葉を僅かにつけている。その時分既に兵器工場あたりから火の手が挙った。病院からも煙を吐き出した。浦上川を挟んであちらからもこちらからも黒煙が上り出した。黒煙は次第に空を掩い、やがて巨大な雲団と変じた。雲は金比羅山を越えて東、東へと移って行った。太陽は煤ガラスを通じて見る様に光を失ひ赤くどんよりと空に懸っている。
 田辺君が頭部の繃帯に血を滲ませて学生に助けられ乍ら登って来た。婦長山口君も見えた。山の中腹で古屋野先生、大和田野さん、岩永君、松本君、菅婦長代理、その他の一団に遭った。幸に先生は御怪我をなさっていない様だった。大和田野さんは靴を失って足場に困っていたが何処にも怪我をされている様子はなかった。1ケ月後原子病に罹り逝去されるなどと此の時の氏を見た誰が想像しただろうか。菅君は火傷を受けているらしく弱っていた。彼女と他の1人の負傷看護婦を安全な場所に静臥させて、一同頂上に向う。その中に自分は一行にはぐれた。渇を覚へたので穴弘法に向う。空をおおった雲塵は遂に雨を呼んでポロポロと降って来た。林中に一時横臥する。道傍で1人の男が黄色の胃内容を嘔吐している。発作は続けざまに起っている。自分も軽い悪心を覚える。空気全体に一種異様の臭気がある。穴弘法の建物も全壊して水は飲めない。巖窟の所で川場君に遭う。窟内には学生その他の負傷者がゴロコロ臥せている。
 穴弘法を下りて病院と学校との間の谷合に出たが火のほてりで進めない。巳むなく又引帰す。穴弘法下の墓場の一角に藁を敷いて横になる。空気は濁ったまま黄昏に移って行った。一種異様の匂いがある。夜に入ってますます火の手は猛威を逞ふしだした。大波止の方向にもどんどん火の手が挙っている。焔々天を焦す火勢は人力を越超したものと思はれた。長崎最後の日と云う文字が時々頭を掠める。軽度の悪心に一晩中悩む。
 翌早朝山を下って病院に行く。実に惨憺たる荒廃である。更に下って竹之久保の自宅に着く。全く灰儘に帰している。母の遺骸探せども求め得ず。
 道の尾迄徒歩し、列車に乗込む。列車は軍医部隊に収容されたる重傷患者にて満員。午后佐賀県の疎開地に到着。不当に洗浄した為めかその晩から右腕の創が疼き出した。爾後38℃前後の発熱が10日間程続く。局所を昼夜氷で冷す。炎衝はますますはげしく前膞全体腫脹し、フレグモーネの様相を呈す。全治迄約1ケ月を要した。血液像は残念乍ら、機会なくして検索しなかった。当日背部に圧を感じた個所は胸椎第9番で今尚該部に軽度の圧痛を覚える。そして面白い事には当日を界として、指爪に段溝を生じた事である。汽車旅中に隣席の同じく遭難者にその話をした所、彼曰く私も爪に段を生じました。又当時より約3ケ月間指爪はチアノーゼを呈していた。
 終りに臨み、遭難逝去された角尾学長はじめ諸教授方、石崎助教授、大和田講師、学生、職員、看護婦諸氏に対し奉り甚深の弔意を捧げるものである。


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原子爆弾遭難記 昭和20年10月30日① 原子爆弾遭難記 昭和20年10月30日② 原子爆弾遭難記 昭和20年10月30日③
原子爆弾遭難記 昭和20年10月30日④ 原子爆弾遭難記 昭和20年10月30日⑤ 原子爆弾遭難記 昭和20年10月30日⑥
原子爆弾遭難記 昭和20年10月30日⑦ 原子爆弾遭難記 昭和20年10月30日⑧ 原子爆弾遭難記 昭和20年10月30日⑨
原子爆弾遭難記 昭和20年10月30日⑩ 原子爆弾遭難記 昭和20年10月30日⑪  
所蔵:長崎大学附属図書館医学分館


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