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医家原子爆弾体験記録

自家の原子爆弾症
長崎医科大学教授 北村包彦

 爆撃の時刻には爆心東南1㎞の附属医院外来診察所の3階にいた。当時窓はすべて開放されていたが、自分のいた3階南側の皮膚科診察室は建物の西及び北側の「コンクリート壁」の他、更に建物の真中を東西に走る廊下の両側の壁、及びこれと直角に置かれた各室間の壁仕切に依って爆心から幾重にも遮断されていたことを記す必要がある。
 爆撃の直前爆撃機の急降下音に類する激しい音響を聴いたと云う人が多いが、自分にはその記憶なく、突如、折から北向きに椅子によっていた自分の右後口、即ち爆心とは反対の方角の窓外、中天高く強烈な白光の閃くのを感じ、次の瞬間「バリバリ」と物のくだけるような音を聴いたと思ったら、強く前のめりにたおされた。意識は失われず、直ぐ起き上ると頭、額から出血して眼に流れ込むのが判ったが、別に頭皮全体に、毛髪が「チリチリ」に焦げていったような、感じがした。但しこれは単なる感じで、頭髪には何の変化もなかったのであるが、然も後に記すようにその後頭髪の発育が幾分後れ、光沢の失われたことはこれに関係がありはしないかと思われる。自分が起き上ったとき、あたり一面はうす昏く、然もそこには自分には薄桃色に見えた煙が立こめ「セルロイド」の焼けるような臭いが充ち充ちていた。この臭いは或は窓にかけ並べてあった指説用の「ピェログラム」の「フィルム」の額が燃えたからかも知れない。自分は煙の中を手探リで廊下へ、次いで階段を下って戸外へ脱出、先づ附属医院東側の丘上へのがれ、迂曲して皮膚科病室に辿り着くと既に火を発していた。そこで精神科病室の裏へ廻り、破裂した「タンク」から噴き出している水を受けて頭、
 額の出血を洗い、居合せた学生の一人と負傷の状態を検らべ合い、すべて軽傷なことが分ったので襯衣を裂いて頭から額を繃帯した。これまでの間、そしてその後も意識、気分、呼吸、脈搏はすべて正常で、悪心、悪寒、発熱を覚えず、十分歩ける自信があったので約7㎞を徒歩で帰宅、これに約3時間を要したが、それは自分よりも弱っていた同僚、学生、看護婦と一緒だったからである。この学生の顔面の左半、左上肘、左上背に熱射に因る第2度・熱傷を受けていたが、侟りに悪心を訴えていた。そして2週間後高熱、下痢を発して死亡した。自分は帰宅の途中井戸水を恵む人があってこれを飲んだら、空腹の所爲かすぐ嘔いてしまったが、その後には悪心も全く覚えなかった。
 帰宅後創を水で洗い、「マーキュロクローム丁幾」を十分に塗布、繃帯した。前頭、側頭、前顔、左右上脈瞼、両頬、両手背、左大腿全面に点々する20数個の創はすべて飛散硝子片に因ると思われる、すべては皮層に止まるもので、熱傷は皆無。その大半は一次性癒着、僅かに数ヶ所のみ化膿、そのうち前額、一創から小指爪大硝子片を摘出した。1ヶ月後創のすべて瘢痕性に治癒、この間化膿創の分泌が幾分稀薄に見えたのは後に証明された「ロイコペニー」から肯定されるとは雖え、創の治癒が著しく、後れたとは云は難い。負傷に対して繃帯交換の他「テラポール錠」内服を数日連続、破傷風血清1回皮下注射。
 受傷数日後から右眼では物が稍々霞んで見えるのに気附いたが、1ヶ月後浅沼博士に依り瞳孔は不規則形に幾分散大し、角膜表面に擦過傷を、但し瞳孔中心を逸れて生せることが確かめられた。併しこの視力障害はその後漸次消退、正常視力に近づきつつある。
 全身症状としては受傷翌日体温最高38.6度、翌々日37.5度、その後引続き平温、食慾は終始旺盛、下痢も亦、終に起らなかった。然るに9月10日前後、即ち1ヶ月後に至り4日に旦って毎日最高37.6度まで発熱、全身異和、倦怠の感があり、左右上肢、左右大腿の何れも上1/3内側に粟粒大出血斑散生、その数一肢20ヶ内外。但し夫等は続生又は拡大する傾向なく、間もなく腿色、次いで消失した。この間又救頬粘膜に2ヶ、同様な小出血斑出現、是亦翌日には消失した。前記発熱に伴う全身異和、倦怠の感じは前後約1週でなくなった。この前後全身皮膚に貧血、特に左右手足背に軽い色素沈着と皮膚光沢の消失とが認められたが、約1ヶ月にして何れも正常に復帰。当初から頭髪その他毛髪の脱落なく、唯受傷後2ヶ月間は頭髪の発育の稍々遅い観あり、且つ又頭髪は「バサバサ」として光沢失われ、これとともに被髪頭部、その他裸露部の皮脂分泌が幾分減少した観があった。汗分泌に関しては生来多汗の傾向のものが受傷当日炎天を徒歩帰宅した途中一向に発汗なく、奇異に感じたが、その後は再び十分に発汗するようになった。体力及び気力は9月10日前後の発熱時多少低下し、後徐々に回復した。9月10日前後に「ビタミンB1、B2」同C剤の皮下或は静脈注射を続行、「ビタミン」各種の合成剤を内服、その後も当分静臥、安静を守り、努めて新鮮蔬菜類を摂った。
 血液所見。9月20日赤血球334万、「ヘモグロビン」61%、白血球4200。10月5日赤血球292万、白血球3700。10月22日白血球6600。
 以上、硝子片に因る負傷は別とし、自分の所謂原子爆弾症は一般患者と比較、著しく遅発性、且つ又僅に軽微の部類のものであったようである。爆撃時自分の所在地点は最初に述べた建物の壁に依る遮断関係の他、大学内では爆心から最も遠い地点であった。当日自分は白襯衣の上に白い予防衣を着用、「乗馬ズボン」に靴、室内故無帽。受傷後爆心を約1㎞迂曲、徒歩帰宅した後は引続き爆心から径約5㎞の自宅に留リ、被爆地には赴かなかった。


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自家の原子爆弾症① 自家の原子爆弾症② 自家の原子爆弾症③
自家の原子爆弾症④    
所蔵:長崎大学附属図書館医学分館


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