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『放射線科学文化』

 大学の放射線施設で仕事をしているので、小中高生への放射線教育的なものを年に2、3回実施している。小中学校への課外授業では「身の回りにある放射線」、「放射線・紫外線とわたしたちの健康」、高校生では理数科のアドバンス教育的に「放射線をサイエンスする」などご指名ベースで出向いて、あるいは受け入れている。主体的に動くわけではないが、学校教員の講義実習を受け入れることもある。被爆県長崎では、放射線の認知度は他の地域と比べかなり高く、地元マスコミで被爆関連ニュースが途切れることはない。毎年8月9日は登校日で、ビデオや語り部の方々による平和教育が粛々と行われる。これは長年続いているらしく、教師の大多数は長崎出身であることもあり、教師も生徒も同じ平和教育を受けて過ごしてきたことになる。その結果、多くの教師も、父兄も、生徒も、放射線の遺伝的影響や、ある程度低線量の健康影響は「ある」と答える。それも結構自信を持って。健康被害に苦難の人生を歩んでこられた被爆者や、その被爆認定地域拡大訴訟に寄り添うマスコミ報道と、被爆による健康被害を強調した長年の平和教育の賜物に他ならない。


 そんな環境で放射線教育を行うが、意外とウケはいい。新しい知識を得る快感は、年齢に関係なく同じのようだ。それで完全に知識が入れ替わるかどうかはわからないが、少なくともそれまでの内容とは異なる世界があるのだということを認識する一歩にはなる。帰ってお母さんにも教えてあげます、と授業後の感想で小学生に書かれると、頑張ってねと思わず頭を撫でたくなる。その一方、政府の片棒を担ぐようなことを教えるのはゴメンだと言われる教師の方もおられる。教師とはいえ嫌なものは嫌で良く、それも真っ当な意見の一つであろう。そもそも教えたり研究したりする側の人間は、自分が興味のある対象が一番面白いと思っているが、他から見て面白いかどうかは別である。放射線も同じで、すべての科学教育項目から見ても、特別に面白いとする理由は見当たらない。それでも放射線教育を行う理由を、教育指導要領の改訂にのみ求て良いのだろうか。


 安全文化や安全神話という言葉は耳にしても、そもそもこの国では放射線科学が文化として育っていない。発明後130年程度だから、どこの国でも同じようなものかもしれないが、少なくとも放射線事故後の慌てふためき方を見る限り、科学技術の進歩した先進国としては、それに見合った文化になっていないようである。文化には何が必要か。自由な発想、闊達な議論、地域性や歴史を包含した時空間的なものの考え方、関わる者の人間性、人間愛、他にもあろうが、これらは学習指導要領により生み育てられるものではない。だが、教育は、少なくとも文化の礎を築くことにはつながるはずである。教師の皆さんにエールをお送りしたい。


7/5/2017  松田尚樹