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医家原子爆弾体験記録

原子爆弾体験記(医師として)
医学生 佐保光康(22才)

 8月9日午前5時起床、押入れにたくさん溜って居た洗濯物を久振リ洗濯し、9時半頃相当に疲れて登校した。
 其の当時、小児科の卒業試験で小児科病棟北側の予診室に居た。午前11時空襲警報解除中に拘らず、急に飛行機の急降下音に似た爆音が不意にしたので解放せる窓を通して外の方を眺めて居た。何処からともなく不意に大学本館の上に地上近く低い高度の所に直経1米程度の銀白色のあたかも太陽の如きギラギラした円形の物がポッと浮出た。直ちに腰掛けて居た椅子から床の上に伏せた。当時意識は明瞭であり、8月1日の空襲にて至近弾にて僅か手掌に硝子片により小さな傷を受けた経験にて大胆になっていた為別に恐怖も抱かなかった。
伏せ方が早かった為か、爆発音も爆風も光線も感じなかった。勿論耳も眼も手指でしっかり被った居たのではあるが。
間もなく昭和5年頃からの入院カードをとじた本の一杯入れてある本棚たおれ机は潰え、何処からか大きなベンチが飛んで来、コンクリートの天井も崩れ落ち遂に完全にこれらの下敷きとなり、身動きも出来ぬようになった。外部から身体の一部も見えぬように完全に埋没された。思うに私が見た爆弾はその破裂直前で、尚後程一緒に居た友人より幾分症状軽度だったのは早く伏せてコンクリートの壁の陰になったことと、完全に沢山の物に被われた為と考えられる。
一緒に居た友人に救出され、他の友人を掘り出し看護婦及給仕の2名を1人の友人と協力してかつぎ、又、手を引いて、フラフラしながら病院裏手の丘へ避難し、彼女等を横穴壕に収容し手当をして、次に附近の患者の収容、壕の擬装をした。太陽はカンカンと照りつけ、市中の火災による熱い煙は火災の為に起ったと思われる強風に我々に強い熱気を送った。午後になると間もなく片々とした黒雲現われ小量の黒き雨降リ、しばらくの間薄暗くなった。
午後3時頃浅い井戸の水をコップ1杯程飲んだ所、間もなく悪心、嘔吐あり。夕方6時頃排便1回、これは軟便であったが、他は正常便と何等変った所はなかった。
この日の嘔吐27回、悪心の苦しき事殊更であった。
嘔吐は初め7回は胃内容を出し、次に黄色の胆汁等の十二指腸内容、後には何も出なくなった。時々頭痛眩暈あり。嘔吐始めてより脱力感強く加えて大腿の外傷の痛み強く、杖を頼り裸足にゲートルをまきつけ背中、下肢は外傷の為血と泥にまみれたボロボロ破れた衣服をまとい、フラフラしながら仕事をした。この日、食慾全然なかった。
その日は寒さに震えて野宿一夜を過した。
翌朝5時頃起床し直ちに井戸を探して廻り、バケツに水を2杯汲み、患者の喉をうるおしてやり、又、傷の手当をしたが、何分、私は脱力感強く、当地に居ても役立ちそうにない為、10時過ぎ道尾迄逃げた。途中焼け死体のゴロゴロしている所を道不明な為、まだ熱い灰の中を右手に東洋一の浦上天主堂の燃え崩れて行く凄愴な姿を見ながら杖にすがり途中空襲警報、退避の叫声をききつつ。
呼吸困難強く、これは9日より約10日間続いた。尚、食慾なく、何か一寸飲食をすればすぐに嘔吐をした。夕方道尾より郷里佐世保へ行き夜10時頃やっと帰宅。自宅は9日に田舎へ疎開した為、誰も居ずそのまま玄関に臥せて一夜を過した。
11日より休養に努めようと思ったが、防空壕生活の為に充分静養も出来なかった。この日病院に行き傷の手当を受け、ヒマシ油を飲み、12日は硫酸マグネシウムを飲み、9日以来飲んだ汚水による腸系伝染病の予防に努めた。その後、後処置として3日間下痢止め薬を飲んだ。しかし11日からの下痢は止まらず、便通回数は1日に5、6回、これは約1ケ月間続き、後には2、3回に減じた。便の性状は時には無色のことあれど多くは淡黄色で水様透明、尿の如き感じがした。
13日朝警報を聞き不意に起床して防空壕へ行く途中、眩暈烈しく起り遂に縁先から庭へ卒倒した。疲労と貧血のあった為であろう。この時眼瞼結膜は幾分貧血していた。
13日夕方折尾瀬村の友人の所に避難に行ったが、この日は遂に駅で一夜を明かした。14日朝友人の家に到着した。
この強行軍の為、疲れが強かった。尚、此の日迄遂に食慾なく食事はしなかったが、友人宅で友人にすすめられ、又、貧血で卒倒したのを思い、悪心を我慢し、無理に朝食飯碗1杯たべた。しかし、食物の味は殆どなく、僅かに塩かけて味がする位であった。この日より充分の休養がとれた。ここで友人一家の人には色々と親切を尽くされ非常に有難く今も尚感謝の念にたえない。
8月16日朝、日本降伏を知り、再び佐世保に帰った。
熱感は8月10日より10日間程あった。
17日血液検査を行ったが、白血球種類は淋巴球40%、分葉核30%、桿状核30%、エオヂノ嗜好細胞0.5%であったと記憶する。これだけの核の左方移動あれば相当の貧血があったと思われる。
器具の関係で血球数は遂に数えることが出来なかった。
8月24日、全身状態幾分回復したので大学焼跡に行ったが、その日帰宅した。背中及両下肢の小さな打撲傷は化膿したが8月末には治癒した。尚、足蹠のマメも膿瘍となったが表皮切除して傷の処置をしたら8月末に治癒した。
そして8月末には健康廻復し、元気になり、中等度の労働も行うことが出来るようになった。
9月2日夕方から天候少し冷えて来た為、早く就床した。
翌朝、悪感戦慄なくして急に熱感が起り、発熱40度になった。両側口蓋扁桃腺、右側顎下淋巴腺及両側鼠蹊淋巴腺が拇指頭大に腫脹し皆自発痛あり、嚥下痛甚しく、亦食慾無くなり、全身倦怠感強かった。但し悪心嘔吐はなかった。
8月28日頭髪の脱毛に気付いた。これは前頭部及右側頭部であった。これは放射線を右側からうけた為と思われる。
毛根は退行変性して萎縮し細くなっていた。脱毛程度は中等度で散在的にボーッと脱けた。
9月6日、血液検査にて白血球数800、私の正常値は7500であったのでこの時の落胆は相当深刻であった。
内科医は目下療法不明故、安静するより外はないとのことであった。私は多分、死ぬと思い、思うままの治療をして死際のあきらめよいように、亦最後の社会的貢献として自体実験を思い立った。まず一般療法として葡萄糖、ビタミンB、Cの注射、尚体力充分ありそうであった為全身網様内皮系を刺激し、血球増加を計る為に刺激療法として、非特異蛋白剤の注射、紫外線照射を行った。輸血療法は思い立ったが、遂に行う機会なかった。尚、化膿創防止の為、中毒性顆粒白血球減少症の注意をしながら、ズルホンアミト剤の注射を行い、後には肝臓製剤の内服も行った。
此等の療法は私の体の状態に適したのか、9月15日に白血球数は3000となり、9月25日には6000となった。
刺激療法は長期間行っては、逆に造血器過労し逆効果を来たすと思い、一週間で止めたが他の治療は20日迄続けた。
9月3日より歯はゆるみ可動性となった。
9月10日には小量の衂血があった。しかし倦怠感は9月3日より9月15日頃迄あった。
養生が良かった為か9月25日頃には大体元気になった為、9月29日長崎高商にある大学本部に行った。
本部にて影浦教授より、大村海軍病院に行くように言われ、直ちに帰省、登校の用意をして大村に行った。
此処で少数の友人及米国原子弾調査団(デコルシー大佐一行)と原子弾の治療及研究にあたった。
10月2日原因不明の軽度の腹痛があったが、他の胃腸病状は認められなかった。
大村に於ける過労の為か10月10日より一週間程盗汗あり。
10月15日に診察をうけたら右鎖骨下部に軽度の濁音があった。
この為其の日より、時々葡萄糖、ビタミンB、Cの注射を行った。
其の後盗汗熱感はなくなり、10月末には元気になった。
以上の経過中皮下出血は認めきらなかった。
皮フの色は少し黒くなったといわれている。尚、8月、9月の2ケ月間は気分は少し陰欝になった。
11月に傷化膿し治癒遅き為、白血球計算したら再び白血球へり4200となっていた。傷は1月始めに治癒した。その後血液検査は行わぬが元気になって身体も正常に回復したと思っている。


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原子爆弾体験記(医師として)① 原子爆弾体験記(医師として)② 原子爆弾体験記(医師として)③
原子爆弾体験記(医師として)④ 原子爆弾体験記(医師として)⑤ 原子爆弾体験記(医師として)⑥
原子爆弾体験記(医師として)⑦ 原子爆弾体験記(医師として)⑧ 原子爆弾体験記(医師として)⑨
原子爆弾体験記(医師として)⑩    
所蔵:長崎大学附属図書館医学分館


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