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医家原子爆弾体験記録

原子爆弾遭難体験記
長崎医科大学教授 調 來助(当時47歳)

 8月9日午前11時、自分は其時調外科東病棟2階の教授室で論文の執筆中であった。俄かに唯ならぬ爆音が聞え出したので、待避の爲、立ち上って白衣を脱ぎ、黒地夏洋服に着替えながら部屋を出ようとした。出口に近づいた時、入口のドア一面に青白い閃光が見えたので、爆弾の炸裂と心得、直ちに書棚の前にうづくまった。此時自分は目をつむり口を結んで息を止めて居たものと思う。
 続いておさへつける様な「ボン」という音がしたかと思うと、すぐに「ガラガラ」と物のくずれ落ちる音がして自分の頭や背中の上に何かが落ちかかって来た。案外に軽い。別に怪我もしなかった様だ。後でわかったのであるが、それは天井を張ってあったテックスと細い木の桟であった。
 暫時の後破壊音も静まったので立ち上ってみると訳もなく立ち上れた。目を開けるとあたりは真暗で、闇夜よりも未だ暗い気がした。其儘再びしゃがんで前の姿勢をとった。今度はザーッという大雨の様な音がする。やがてそれも静まったので又立ち上ってみると夜明けの様にボンヤリ周囲が見え出した。部屋の中を見渡すと机も戸棚も「ベッド」も倒れて其上から崩れ落ちた天井が覆いかぶさって惨憺たる光景を呈して居る。書きかけの原稿も「ノート」も時計も「カバン」も何処へ行ったか見当らぬ。次の空襲があってはたまらぬと思い、取るものも取りあへず部屋を出て階段をかけ下り東の出口から出て、調理所裏の防空壕に走った。元気そうな古屋野教授に会ったのは此時である。
 当時自分の着て居たものは、上は黒地夏洋服、白「ポプリン」の「ノータイ」、真下に薄い白「シャツ」を1枚、合計3枚で、下は黒「ズボン」、白「ズボン」下、巻「ゲートル」、白革靴、靴下等で、帽子は被って居なかった。部屋の略図を描くと凡そ次頁に示す通りである。爆心地が松山停留所附近とすると、爆心からの直線距離は、爆心高度500米、地上距離750米として
 
式の如く約900米ということになる。又円の様に西北方から光線が来たことになるら、少く共厚さ約30糎の「コンクリート」壁を2乃至3枚通して自分の所に達したことになる。
 硝子窓は全部開けてあったが、平素風通しの悪い部屋だけに自分は全然爆風を体に感じなかった。其為か身に寸傷も受けず、無傷で逃れ出ることが出来たのはまことに僥幸であった。
 部屋を出た自分は間もなく裏の丘に上り、穴弘法下の丘陵で負傷者の治療をなしつつ一夜を明した。昨日迄青々と繁って居た甘藷、南瓜等は葉がとび蔓まで椀がれて裸山となり、路傍の窪地、崖下等には火傷、重傷の負傷者がぐったりしたなりで横はって居り、中には虫の息のものもあり、又既に鬼籍に入ったものもあった。殆んど総てが裸体同様の有様で、歩いて居るものも元気がなく、着物はずたずたにちぎれ、嘔気、便意等を訴へ嘔吐を催して居るものも少くなかった。無傷のものまでが胸の苦しみを訴へ顔面蒼白で急性ショックを想わせた。渇を訴えること甚しく皆谷川の泥水や南瓜によって渇をいやして居た。比較的元気であった自分も掘り出した甘藷によって渇及空腹をいやした程であった。
 翌10日の早朝焼跡の大学病院に下り、午後1時病院を出て爆心地を通り徒歩で道尾在の疎開先滑石郷(爆心地より北西方4.6粁)に帰った。11日は再び朝から大学焼跡に行き終日を過し、12日以降は滑石郷に止って負傷者の治療に専念した。
 当時火傷は普通の火焔や熱湯による熱傷と同一のものと思い、軽傷者や無傷のものの無気力はショックによるものと解して居たが、40度内外の高熱や無傷であり乍ら次々に死亡することが果して何によるものであるか全く不可解であった。水様下痢、血便、裏急後重等は初め赤痢と思って隔離するよう努めたが、赤痢としては少しおかしいと思いついたのは罹災後1週間乃至10日を経た時であった。
 自分は罹災後至極元気で8月末迄負傷者の治療に活躍した。9月3日豪雨中を長崎市桜町の大学仮本部に出頭し帰路2里半の路を徒歩で帰ったが、疲勢困憊し、翌4日よりは全身倦怠感甚しく急速度で歩くことが出来ず、同夕刻大腿及上膊に10数個の血斑を発見した。其大さは帽針頭大、円形で色は赤紫色、中には大豆大の不整形紫斑様のものもあった。此小斑は蚤の刺跡と思わるる節もあり、初め血斑の周囲に直径6及至7粍の紅暈を見るが間もなく之が消えて中心の鮮紅色斑のみが残る。此斑点は却々に褪色せず、4~5日を経て初めて漸次色の薄らぎ行くのを認めた。又当時「ビタミン」剤の静脈注射を行ったが、針の刺入部にも粟粒大の血斑を生じて却々吸収せず、4乃至5日後に初めて少し宛吸収されるのを確認した。即ち当時は一般に出血し易く且つ其吸収が遅延するものと思われた。
 以上の外には普通放射線症として頻発した発熟もなく(最高36.8)、下痢も来ず、食慾は旺盛で、歯齦其他の粘膜出血も見られなかった。唯全身倦怠が高度で、少しの体動にも息切れがし、呼吸は小児よりも頻数であった。爪は蒼白となり全身の皮膚は縮緬皺がよって光沢がなく、顔色は蒼黒く、一見して健康人との区別が出来た様に思う。尚9月15、6日頃1日嚥下痛があり顎下淋巴腺(殊に左側)の腫脹を認めたが、「カルシウム」の注射により直ちに軽快した。扁桃腺の腫大はなかった様である。
 血液像は9月16日、赤血球350万、白血球2400、血色素60%で、白血球像は、淋巴球57%、大単核4%、エオジン嗜好白血球1%、中性多核白血球32%、同桿状核白血球6%であった。此状態は20日頃迄大同小異であったが、9月末大村海軍病院で合衆国軍医に検査して貰った時は赤血球482万、白血球5800あったので、其後は測定しなかった。自分の原子症状は9月4~8日頃が最高潮の様であったから、其頃測定したら更に白血球減少が高度であったかも知れぬと思う。
 治療として発症期に「ビタミン」B及Cの静注約1週間、「カルシウム」1回、其他牛乳及び牛骨「スープ」の服用等で、就中「スープ」は大変有効であった様に思う。又全身倦怠感に対しては少量の酒飲用が著効を奏し、話する気力もない時に少量の酒を飲用すれば直ちに元気を恢復し爪跡の貧血も幾分軽減した様であった。
 以上全体を通じ放射線による症状は極めて軽症の様に思われるが、12月頃になっても尚急いで歩けば息切れがし、仕事に倦み易く、且つ疲れ易い点等総て戦災以前とは著しく異って居る様に思はれる。
 本体験談は昭和20年12月古屋野学長の要請により簡略に記述したが、今回それを基礎にして多少、詳細に布衍したものである。
(昭和21年3月4日 記)


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原子爆弾遭難体験記① 原子爆弾遭難体験記② 原子爆弾遭難体験記③
原子爆弾遭難体験記④ 原子爆弾遭難体験記⑤ 原子爆弾遭難体験記⑥
原子爆弾遭難体験記⑦ 原子爆弾遭難体験記⑧ 原子爆弾遭難体験記⑨
原子爆弾遭難体験記⑩    
所蔵:長崎大学附属図書館医学分館


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